1945年3月末、米軍の空襲と艦砲射撃が始まります。玉城村(現南城市玉城)仲村渠で暮らしていた比嘉由照さん(82)=八重瀬町=は母、祖母、2歳の弟と共に隣集落の垣花にある壕シチナクブに向かいます。
「黒っぽい風呂敷にいろんなものを詰めて、ガマまで担いで行きました」と由照さんは語ります。
その日から2カ月余のガマでの避難生活が始まります。食糧不足に悩みました。
《シチナクブでは、母が食料探しで壕の外を飛び回った。祖母は左腕の不自由な弟の面倒を見ていました。首里王府に奉職した祖先の位牌、神衣装を手放すことはありませんでした。》
壕内は張り詰めた空気が漂っていました。日本兵に怒鳴られた記憶があります。子どもであろうと、住民を疑いの目で見ていました。
《ガマの入り口の石灰岩に生えるグミの実を見つけ、幼稚園の遊び友達と熟れた実を取るため木を揺すったら衛兵に見つかった。恫喝(どうかつ)され、危うく斬り殺されるところだった。》
壕内で子どもが泣きだすと日本兵は厳しくとがめました。日本兵の態度について比嘉さんはこう記します。
《軍は県民の行動を監視し、スパイ扱いする偏見があった。グミの実を取ることもスパイ行為に結びつけるなど、島民にとって敵は米軍だけではなかった。》