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「礎」の理念 戦争美化せず敵味方なく 追悼「誰でも受け入れる場を」<「戦争死」に向き合う>④


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
自身の沖縄戦の体験と平和の礎建立の経緯を話す高山朝光さん=8日、那覇市内

 1962年11月25日、琉球大学体育館(現首里城跡)で行われた南方同胞援護会、日本遺族会、沖縄遺族連合会主催の「戦没者17回忌慰霊祭」。会場を埋め尽くした約3千人の参列者全員が起立し、「君が代」を斉唱した。正面には天皇皇后両陛下から贈られた菊とユリの大きな花輪。むせび泣きが響いた。

 日本復帰前、全琉戦没者追悼式は「慰霊」色が強かったが、77年の三十三回忌を前に県内で追悼式の存続や在り方が議論された。平良幸市知事(当時)はこの年、名称を「沖縄全戦没者追悼式並びに平和祈念式」として初めて「平和宣言」を行い、「沖縄が世界平和の中心となる」と発信した。

 慰霊から平和発信へ―。沖縄戦から50年となる95年、県は普遍的思想の具現化に取り組み、糸満市摩文仁に「平和の礎」を建立した。国籍や敵味方、軍人・軍属や民間人に関係なく、あの戦争で命を落とした23万人余の名前を一人の人間として刻銘板に刻んだ。

 92年に平和の礎建立の責任者を務めた元知事公室長の高山朝光さん(85)は「戦争を美化せず、非戦の誓いと平和をつくり出す決意だった」と振り返る。

平和の礎には名前が分からない戦没者を「○○の長女」などの書き方で刻銘している=糸満市摩文仁の平和祈念公園

 高山さんは沖縄戦当時10歳。本部半島の八重岳近くの防空壕に避難していた。母と叔母は「どうせ死ぬなら」と子ども5人を連れ、八重岳を撤退する日本軍の「宇土部隊」の後に付いていった。

 日本兵は刀を抜き、殺すと怒鳴ったが、離れて後を追った。羽地村(当時)多野岳に着いた宇土部隊は米軍の攻撃で組織力を失い、火炎放射器で焼かれた山は煙が立ちこめていた。溝には10人ほどの住民の遺体が転がり、首のない遺体は膨れあがっていた。子どもながらに手を合わせ通り過ぎた。

 「忌まわしい戦争で無残に命を落とした人たちの魂をここにとどめる」。高山さんは一人一人の思いを礎に刻む覚悟で取り組んだ。刻む名前は遺族の年金申請を受け付ける厚生省(当時)の名簿を使う案もあったが、県の刻銘検討委員会の石原昌家座長(現沖国大名誉教授)の助言で、県独自で全戸調査を行った。

 国の名簿から漏れている「一家全滅」の人の名前こそ刻むべきだとの思いがあった。調査には約5千人のボランティアが協力し、名前を集めた。戦時の混乱で名前がまだついてなかった赤ちゃんも「○○の子」と刻んだ。

 95年6月23日の「慰霊の日」。平和の礎の除幕式は米国、韓国、北朝鮮、台湾の代表も出席して執り行われた。現在、高山さんは海外の学生を案内する機会も多いが、敵味方なく記銘していることに感銘し、涙を流す学生もいるという。

 玉城デニー知事が一時、今年の追悼式の場所を平和の礎近くから国立沖縄戦没者墓苑に変更するとしたことに高山さんは「深く考えなかったのだろう」としつつ、こう続けた。「大事なのは誰でも共通して受け入れられる場所を選ぶことだ。県民自らが心を一つにしてつくった平和の礎のそばが、皆の思いが一致する場所だと思う」(沖縄戦75年取材班)