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援護法が「生きた証し」の壁に 国が戸籍修正認めず、ゆがむ沖縄戦の本質<「戦争死」に向き合う>⑤


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
沖縄戦で亡くなった妹たちの記憶をたぐる石原絹子さん=12日、那覇市

 沖縄戦の全戦没者を刻銘する「平和の礎」が建設された1995年、石原絹子さん(83)=那覇市首里真和志町=は県援護課に遺族として名乗り出た。沖縄戦で命を奪われた2人の妹が生きた証しを残したい。ただ、それだけだった。沖縄戦の混乱の中、妹たちの戸籍はなかった。そのことを説明すると、担当者が返した。「援護法があるから簡単には戸籍を変更できない。裁判でも起こすしかない」。石原さんは言葉を失った。

 1945年の沖縄戦当時、石原さんは7歳。妹の次子さんは3歳、富士子さんは1歳で、母と9歳の兄とともに玉城村(現南城市)の自宅から戦火を逃れた。同年6月、米軍の艦砲射撃、銃撃の雨の中を避難し、現在の糸満市内の防空壕に身を潜めた。

 雨が降りしきる日の夕方、壕に数人の日本兵がやってきた。「壕から出るか、子どもたちを殺すか」。母に銃口を突き付けて迫った。

 壕を追い出された後、摩文仁の丘で母と兄が砲弾によって殺された。富士子さんは石原さんにおぶられていたが、気付くと息をしていなかった。負傷して衰弱した次子さんも息絶えた。防衛隊に徴集された父も亡くなっていた。

 戦災孤児となった石原さんは戦後、祖母に引き取られた。戦後間もなくして戸籍の調査があり、妹たちの「生きた証し」がないと気付いた。

 「両親と兄、私の氏名はあったが、2人の出生記録はなかった。戦争のショックは依然強く、当時は修正する気力はなかった。それがずっと心残りだった」

 1952年、援護法が制定された。軍人、軍属やその遺族への「援護年金」の支給を目的とし、戦後補償の根幹となる制度だ。本紙の取材に、県保護・援護課は「過去の事例では援護法適用の対象とする根拠を示すためには、戸籍が必要となる。(不正防止などのため)その修正に難渋し、裁判になるケースも少なくなかった」とした。

 援護法を巡っては、法律の仕組みも識者などから問題視されている。適用対象は「戦闘参加者」とその家族に限定している。このことから住民の多くが命を落とした「沖縄戦の実相に即していない」(石原昌家沖国大名誉教授)との批判がある。日本政府は援護法適用の手続きの中で、石原絹子さんも経験した日本兵による「壕追い出し」を「壕提供」に、日本兵のための水くみ炊事を「積極的に協力した」という論理にすり替えた。

 石原さんの妹たちの戸籍編入は認められなかった。一方、「平和の礎」への刻銘は実現した。石原さんの中には、今もわだかまりが残っている。「援護法は沖縄戦の本質をねじ曲げている。生き残った者にまで辛さを強いる。そんな法律って、なんなんだ」
 (沖縄戦75年取材班)