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生死を分けたもの「なかったことにできぬ」 皇民化教育の史実継ぐ <「戦争死」に向き合う>⑥


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皇民化教育の反省を次代に伝えることの重要さについて語る沖縄市平和ガイドネットワークの森根昇共同代表=10日、うるま市与那城屋慶名の自宅

 沖縄戦で米軍が本島に上陸した2日後の1945年4月3日。与那城村(現在のうるま市)薮地(やぶち)島の「ジャネーガマ」を米兵が取り囲んだ。住民らが身を隠し、自警団の役割の住民の中には機関銃を手に立ち向かおうとする者もいた。長老らが止めた。「降参すれば大丈夫だ」。住民らは次々と投降して無血に終わり、当時4歳の森根昇さん(79)=うるま市=もいた。

 その翌日。ジャネーガマから約7キロ離れた具志川村(当時)の具志川グスクでは、米軍に追い詰められた若者23人が軍歌「海ゆかば」を歌っていた。若者らは円陣二つを作り、日本軍から渡された手りゅう弾を爆発させ、13人が絶命した。若者の中には学生もおり、日本軍の軍事作業にも従事させられた男女だったという。

 何が生死を分けたのか。森根さんは中学校教員になり、沖縄戦を伝える立場となった。戦前の皇民化教育が若者を「戦争死」に追いやったと考えた。退職後の2002年から平和ガイドを始めた。現在は沖縄市平和ガイドネットワークの代表世話人を務める。

 糸満市摩文仁の平和の礎で中学生らを案内する際、決まった刻銘板の前で詳細を説明している。「谷川昇」。組織的戦闘の終結後の45年8月20日、久米島で日本兵は「谷川昇」の名の朝鮮出身者をスパイと疑い、乳児を含む家族計7人を虐殺した。久米島では幼児が殺される別の事件もあり、軍隊の残虐性が際立った。45年6月の摩文仁では、日本兵が米軍に保護されようとした住民を殺害した事件もあり、その目撃者と共に伝えている。

 森根さんが強調した。「平和の礎には戦争の反省と非戦の誓いがあり、そのそばで追悼するから意味がある。『皆さんの犠牲のおかげで今の日本がある』という美談ではない」

教訓と史実を継承することの重要性を強調する沖縄市平和ガイドネットワーク顧問の照屋盛行さん=5日、沖縄市嘉間良の自宅

 沖縄市平和ガイドネットワークの照屋盛行さん(80)=沖縄市=は米軍上陸前の45年3月、自宅があった当時の北谷村から羽地村に家族と逃げた。幸いにも全員が無事だったが、家族を失い、苦しみ続ける人々を目の当たりにしてきた。照屋さんも戦後、教員になった。

 07年、政府は教科書検定で軍による「集団自決」(強制集団死)の強制や関与の記述を削除した。12年、県が首里城公園に設置した日本軍第32軍司令部壕の説明板から「慰安婦」「住民虐殺」の文言を削除した。「なかったことにはできない」。照屋さんは他の団体と共に政府や県にいずれの件も抗議した。

 沖縄市平和ガイドネットワークは市内の初任教員を対象に平和ガイドを続けている。その対象は昨夏、中城村の全教員にも広がった。全教員を対象とした平和研修は、中城村が県内で初めてだ。村の教員らは久米島での虐殺事件などを学び、「こんなことが起きたのか」と衝撃を受けた様子だったという。北谷町も今夏から全教員を対象にした平和学習を予定している。

 照屋さんは研修終わりに教員らに言葉を送る。「『見てもいないのにうそを言うな』と迫り、あの戦争を美化しようとする時代が来る。その時は史実をもって負けないでほしい」
 (沖縄戦75年取材班)