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忙しい教師、減る体験者…平和教育「壁」の前で<「戦争死」に向き合う>⑦


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
図書館の資料を読みながら沖縄戦について語り合う糸満高校3年の中村彩花さん(左)と諸見里真知さん=5日、糸満市の同校

 「平和教育というより沖縄戦の周知になっている」。県立糸満高校3年の中村彩花さん(17)と諸見里真知さん(17)は、自身が受けてきた「平和教育」に物足りなさを感じていたという。ビデオの視聴や図書館での調べ物など、同じような授業の繰り返しに「戦国時代のような歴史を眺めている感覚だった」

 県内では沖縄戦を学ぶ平和教育が学校に根付いている。教科のように教える内容は定まっておらず、学校や教師は時代に合わせて工夫を凝らし、引き継いできた。沖縄戦から何を学び、現在の社会にどう生かすのか。試行錯誤は続いている。

 平和教育が始まったのは1960年代とされる。当時は米軍基地や憲法、自衛隊配備など「復帰」に関することが主要なテーマで、沖縄戦は一部にすぎなかった。沖縄戦が中心となったのは70年代後半。80年代以降はビデオ上映や壁新聞などさまざまに展開された。しかし、学校や教師によって取り組みに濃淡も出た。

 近年は体験者や平和ガイドの語りを中心とした平和集会の手法が増えた。教師の多忙化が背景にあり、その代わりを体験者や平和ガイドが務める側面もある。

 今年は新型コロナウイルスの影響で平和教育の縮小を余儀なくされている。糸満高校でも恒例の「平和ウオークラリー」が中止になった。糸満市は沖縄戦継承のため小中学生向けの平和ガイド育成事業に取り組み、3年の中村さんと諸見里さんはその修了生でもある。高校のウオークラリーでは戦跡を解説する動画も用意していただけに、2人は「残念だ」と肩を落とした。しかし、ガイドを通して学んだことは消えない。

 中村さんは今に引きつけて平和について考える。「沖縄戦で戦った日本軍の牛島満司令官と米軍を率いたバックナー中将は、どちらも部下から慕われていた。『いい人』の2人がなぜ戦ったのか。戦争の惨劇は日常の延長にあるのかもしれない」

 平和ガイド団体の沖縄平和ネットワークの北上田源事務局長は、中村さんと諸見里さんのように地域で学ぶことの重要性を指摘し、提案した。「修学旅行生向けの平和ガイドと、県内の児童生徒を教える教師の間に交流がほとんどない。お互いの良さを共有できるセンター的な組織があるといい」

 戦争体験者の減少や教員の多忙化。平和教育は現実問題と変化に向き合う。 (おわり)

  (沖縄戦75年取材班=この連載は中村万里子、島袋良太、安里洋輔、稲福政俊が担当しました)