読谷村楚辺に住む大城強さん(82)から、恩納村での体験記が届きました。恩納岳をさまよった末、自ら家族がいる石川の収容地区へ向かいます。
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大城さんは1938年2月、恩納村恩納で生まれました。7人きょうだいの4番目です。父の保光さんは戦前、村収入役や助役を務めていました。
44年8月、日本軍が恩納村に駐屯し、恩納集落でも日本兵が民家を間借りし、住民は兵士と共に暮らします。保光さんは住民の世話役で、日本軍との連絡役も担いました。各家では農産物の供出が始まりました。恩納国民学校に通っていた強さんもツワブキを集めたといいます。
恩納集落で暮らす日本軍の中に朝鮮人がいたことを記憶しています。
「朝鮮の人たちは日本人にいじめられていたという話を聞きました。子ども心にも、朝鮮人はいつも後ろ指を指されているような雰囲気を感じていました」と強さんは語ります。
10・10空襲の日、読谷村の上空を飛ぶ米軍機を覚えていますが、当初は空襲という認識はありませんでした。強さんだけではなく集落前の道路に立っている日本兵の歩哨も、最初は空襲とは気付きませんでした。
その後、読谷の日本軍が高射砲で応戦していることを知り、住民は集落の班ごとに掘っていた壕に避難します。強さんも家族と集落近くの壕に避難しました。
空襲で壊滅状態となった那覇を離れ、国頭を目指す避難民が恩納村になだれ込みます。集落の空気は変わっていきます。