首里城の繁栄と共に沖縄が誇る染色文化として地域に根を張ってきた紅型。紅型宗家の一つ、城間家で生まれた城間栄順さん(86)=那覇市=が戦後、疎開先から沖縄に戻ってくると、首里は灰じんに帰していた。父の栄喜さんと共にがれきをかき分けて、首里城近くで使えそうな木片を見つけると、掘っ立て小屋の柱にした。それは第32軍司令部壕につながるとみられる入り口の枠板だった。
代々、紅型工房を営む城間家14代目の栄喜さんの長男として1934年3月に生まれた栄順さん。首里第二国民学校に入学して、首里城を身近に感じて育った。「当時は『王様がいるんだ』と思っていた」と記憶を呼び覚ます。
国民学校に入った頃から、戦争が迫っていると子どもながらに感じた。教育勅語を学び、空襲を想定してガマに逃げ込む訓練にも取り組んだ。金曜日は上級生らと班を組まされ、軍に家族が召集された家で勤労奉仕として水をくんだり、掃除をしたりしたという。
42年、父の栄喜さんは染料の買い付けで大阪に行くと、そのまま現地で軍に召集され、佐世保に配属された。栄順さんも弟と一緒に44年8月21日、九州に疎開するため輸送船団の一つ「和浦丸」に乗船し、沖縄を離れた。船団の中には翌22日、米潜水艦に撃沈される「対馬丸」もあった。「海に何かがいっぱい浮いていた。当時は分からなかった」。和浦丸も攻撃を避けるようにジグザグ航行し長崎港にたどり着いた。
疎開先の熊本県の阿蘇で戦火を免れた栄順さん。親元を離れ「ヤーサン(ひもじい)、ヒーサン(寒い)、シカラーサン(親元を離れて寂しい)」といわれた学童疎開。栄順さんが栄喜さんに迎えられ、沖縄に帰ってきたのは47年だった。
「ハンタン山の大きなアカギの根っこが残っているだけだった」。栄順さんらが沖縄に戻ってくると、焼け野原となった首里はまだまだ戦争の爪痕が色濃く、各所にがれきが野ざらしだった。首里城は中城御殿などの石垣の一部が残るだけ。跡形もなかった。
首里第二国民学校に通っていた栄順さんは父と共に近くにあった壕の入り口にはめられた枠板を見つけ、掘っ立て小屋の柱にした。位置関係から第32軍司令部壕の第1~3坑道口とみられる。この時、見つけたのは枠板だけではなかった。栄喜さんは壕から「軍事秘密」「極秘」の文字が書かれた奄美の地図を持ち帰り、紙いっぱいに帆船の絵柄を彫った。戦後の紅型復活を告げる最初の型紙だった。
栄喜さんの後を継ぎ、紅型の普及に取り組んだ栄順さん。首里城を失って迎えた戦後75年の節目に因縁も感じる。首里城焼失、新型コロナと紅型工房も厳しい社会情勢に直面する。「いいことも悪いことも含めて首里城は沖縄の歴史。節目に足を止めてわれわれの生きる道を考えてもいいかもしれない」。栄順さんは栄喜さんが手掛けた首里城が描かれた紅型を見つめた。
(仲村良太)