32壕公開の意義 「軍は住民守らぬ」の教訓継承 小那覇安剛編集局写真映像部長・編集委員 〈特別評論〉


社会
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小那覇 安剛

 沖縄戦体験者の多くは特定の場所と結びつけて自らの体験を語る。住民が隠れた自然壕(ガマ)や防空壕、墓、日本軍陣地、集落近くの山などである。それは必ずしも地図に明示されているわけではない。体験者の記憶に刻まれており、戦後の証言に基づき、県史や市町村史誌や字・区誌に記録されてきた。中には沖縄戦体験を継承する欠かせない戦争遺跡として活用されている地もある。

 体験者が証言を残さないまま他界した場合、住民を守った壕などは忘れ去られる可能性がある。開発行為や老朽化で貴重な戦争遺跡が失われる事例もある。沖縄戦から75年を経て、戦争遺跡の調査と保存を求める声が強くなっている。

 沖縄戦は、本土決戦を遅らせるための戦略持久戦であった。そのため県民に多大な犠牲を強いた。戦禍に巻き込まれた県民の命運を左右する決定がなされた戦争遺跡が首里城地下に築かれた第32軍司令部壕である。日本軍の首脳は45年5月22日、この壕に集まり、本島南部への撤退を決めた。その結果、南部に住んだり、軍と行動を共にしたりした住民や避難民の生命が失われたのである。

 司令部壕は総延長1キロ余。沖縄師範学校男子部の生徒らを動員し、44年12月に構築が始まった。牛島満司令官ら軍首脳がこの壕で作戦を指揮し、千人余の兵士や県出身の軍属らが雑居した。沖縄戦から75年を経て司令部壕は老朽化が進んでおり、5カ所の坑道口は現在閉じられている。

 「軍隊は住民を守らない」が沖縄戦の教訓である。沖縄住民のスパイ視虐殺、「集団自決」(強制集団死)などと並び、住民保護を埒外(らちがい)に置いた作戦方針が県民犠牲の増大につながった。作戦を主導したのが32軍司令部の八原博通高級参謀であった。

 八原氏は73年10月、本紙に寄稿している。敗戦から28年を経た時点でも、その内容から高級参謀の姿を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 この中で八原氏は「そもそも沖縄作戦の目的は、本土決戦を有利ならしめることが最大の眼目であった」と明記し、その上で「南西諸島、特に沖縄本島を観る私の心眼は、まことに申しわけないが、この作戦上の価値判断に基づくものであった。沖縄県民、特に非戦闘員の取り扱いは、この作戦目的に合する範囲内に於いて、最善に処理されたのである」と論じた。

 沖縄本島南部の住民を北部(国頭郡)に移す「北部疎開」に関しては、こうも記した。

 「この狭小な沖縄で、戦火を避けるには、どうしても彼等は国頭郡に移る外ない。この際必ず米軍の手中に落ちることになる。が彼等も文明国の軍隊である。我が難民を虐待することはあるまい。私の長い駐米生活の経験からも、そう信じたのである。幸い、牛島将軍は喜んで、私の意見を承認された」

 北部に疎開し、山中で飢え、マラリアで倒れた住民は、八原高級参謀と牛島司令官の間で、このようなやりとりがあったことを想像できなかったはずだ。一般住民の貴い命を失った県民の苦しみとかけ離れた軍の論理である。

 昨年10月末に焼失した首里城の再建に向けた広範な県民の取り組みの一方で、32軍司令部壕の保存・公開を求める声が上がっている。県民を戦火にさらした無謀な計画が立案・遂行された地である。沖縄戦の悲劇と教訓を記録し、継承するためにも、司令部壕の保存・公開が求められる。そのほか県内各地の戦争遺跡の調査保存に向けた取り組みを今後も重ねたい。

 沖縄戦を学ぶ、語り継ぐこと、それは沖縄の平和な未来を拓(ひら)く営為であることに他ならない。