大城強さん(82)=読谷村=ら一家10人が恩納岳での避難生活を続けている間、山中で日本兵と遭遇することがありました。「敗残兵のような状態だった」といいます。
住民の食事の場に日本兵が現れ、食料を求めることもありました。軍服から着物に着替えて避難民を装い、住民に混じって集落内で食料を探す兵士もいました。
「山の中では、それほど食料に苦労することはなかった」と大城さんは語ります。食料確保のため、大人たちは山を下り、畑にあった野菜を持ち帰りました。集落から連れ帰った家畜を山中で処分し、肉を分け合ったこともあります。
そのような避難生活が大きな変化を迎えます。5月末か6月ごろ、米兵の襲撃に遭います。
《梅雨時の雨にずぶぬれになりながら毎週避難場所を変えて米軍から逃れていたある日、突然、米軍の襲撃を受け、家族はバラバラになった。両親を含む家族8人は米軍の捕虜となり、石川の収容所に送られた。7歳の私と11歳の兄の2人は山に取り残される羽目になった。》
家族8人は米兵に捕らわれた後、大城さんと兄の2人は叔父と行動しました。その後、石川の収容地区を抜け出した親戚が一緒に山を下りるよう説得します。
しかし、叔父は説得を拒みました。「彼らはだまされている」と言い張ったのです。