「ここが32軍司令壕の出入り口だった。爆破して埋まっている」
草木が生い茂る首里城公園の一角。カメラは身ぶり手ぶりを交え、激戦の様子を振り返る老人の姿を捉えている。
インターネットに公開された「親父の戦争」と題された映像の日付は、1992年6月21日。老人は2003年に80歳で亡くなった金城福一郎さんだ。沖縄師範学校の学徒だった金城さんは「鉄血勤皇師範隊」として沖縄戦に動員された。
米軍の砲撃を受けて戦場をさまよった当時の記憶を頼りに自らの軌跡をたどった。車のハンドルを握りながら、息子や孫らに戦争体験を語り聞かせる様子を、長男の福実(ふくみ)さん(72)が撮影した。福実さんは「おやじは自分の戦争体験を、私らが小さな頃からいつも話してくれた」と振り返る。
学徒隊の拠点「留魂壕」があった首里城から始まる追憶の道行きには、次男の哲夫さん(70)とその子供たちも同行した。哲夫さんは米軍の攻撃に追われ、南部に敗走する途中で起きた出来事について語った、金城さんの話を鮮明に覚えている。
高嶺村(現糸満市)の住宅で、兵士や住民らと休んでいた時、米艦船が放った砲弾が住宅を直撃した。哲夫さんは「家には17人がいたそうだが、おやじ以外はみんな亡くなったそうだ。なんてすさまじい経験をしたのか、と息をのんだ」と明かした。
九死に一生を得た金城さんだったが、砲弾の破片が身体のあちこちに突き刺さる重傷を負った。金城さんは、傷口にわいたうじを払いのけながら摩文仁を目指した。哲夫さんらは幼少時から金城さんの身体に残った無数の傷痕を見ていた。それだけに、悲惨な戦争の情景がより生々しく感じられたという。哲夫さんは「おやじは人前で肌をさらすことがなかった。体中にあるカンパチ(傷痕)を見られたくなかったんだろう」と述懐する。
金城さんは戦後、米軍嘉手納基地で働き、1972年の日本復帰を機に独立して、那覇港のそばで民宿を始めた。父親から民宿を受け継いだ三男の博史(ひろふみ)さん(68)が、撮影した8ミリフィルムを半年がかりで編集し、12編の動画にまとめた。「おやじは民宿のお客さんによく自分の戦争体験を語った。戦争に対する強い反省があったのだと思う」と博史さん。父親の強い思いを語り継ぐかわりに、ネット上で動画を公開した。
長男の福実さんは言う。「生死の極限を経験した父親の声と姿。それを記録として残したかった」
これからも不戦を願う語り部の思いは残り続ける。
(安里洋輔)