家族8人が米軍に捕らわれた後も、大城強さん(82)=読谷村=は兄、叔父と共に恩納岳山中に隠れていました。そこへ、石川収容地区にいる親戚が訪ねてきて、山を下りるよう説得します。
《収容所は安全で食べ物もあり心配ないから一緒に来るよう両親から頼まれたという。しかし、一緒にいる親戚は、『みんなだまされている。子孫を残すためにも、お前たちは絶対行っちゃいけない』と頑張った。》
叔父は「だまされるな、スパイだ」と兄弟2人に言い聞かせました。大城さんも「捕虜になったら殺される」という考えにこだわっていました。その後も親戚の説得が数日続き、叔父もようやく「嘘ではないようだ」と態度を和らげ、収容地区に行ってみることにしました。
《夕暮れに恩納岳の麓をたち、尾根伝いに南下した。山を越え谷や川を渡って、照明弾の光にさらされながら収容所の金網をすり抜けた。民家の軒先で足を投げ出して寝ている母親の足に触れた時の感触はいまだに忘れられない。》
家族は収容地区内の7区(現うるま市石川の「世栄津森(ゆえつむい)」周辺)の民家にいました。屋内は人がいっぱいで母の静さんら家族は雑魚寝をしていました。「母に会うことができ、やっと生きることができたという気持ちだった」と大城さんは語ります。
大城さんはそのまま石川収容地区の住人となりました。