沖縄戦75年、不発弾なお1920トン 平和の礎は25年「命どぅ宝」発信


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平和の礎の前で手を合わせる遺族=16日午前11時ごろ、糸満市摩文仁の平和祈念公園

 1945年6月に第32軍の組織的戦闘が終結してから75年となる「慰霊の日」を迎えた。戦後75年がたっても沖縄には全国の米軍専用施設約70・3%が集中する。戦争中、沖縄に投下された爆弾は今も不発弾として地中に眠る。一方、戦没者を刻む「平和の礎」は完成から25年がたち、沖縄の平和精神を体現する場として定着した。新型コロナウイルスの影響により、糸満市摩文仁で開催される沖縄全戦没者追悼式は規模が縮小される。会場変更案が浮上し異論が相次いだ経緯もある。戦後75年がたっても残る課題をまとめた。

 

<不発弾処理>いまなお1920トン残存/県民の安全脅かす

 「鉄の暴風」と形容された沖縄戦時中、沖縄本島内で使用された弾薬は約20万トンとみられ、そのうちの5%に当たる1万トンが不発弾として残ったと推定されている。

 1972年の沖縄の日本復帰までに約5500トンの不発弾が処理され、復帰後は2019年度までに、自衛隊が約2079トンを処理した。  だが、500トンと推定される発見困難で処理できない永久不明弾を除いても、いまだに1920トンを超す不発弾が残存すると考えられている。

 実際に今年に入っても、県内各地で不発弾が発見されている。4月に那覇空港で、沖縄戦当時のものとみられる米国製250キロ爆弾3発が相次いで見つかったことは記憶に新しい。

 過去には事故も起きている。2009年には糸満市内の水道工事現場で、不発弾に重機が接触して爆発し、作業員の男性が右目の視力を失うなどの大けがをした。

 不発弾の処理時には、現場近くで交通が規制されたり住民らが避難を余儀なくされたりすることも多い。戦後75年を経てもなお、県民は不発弾に安全を脅かされ、不便を強いられる状態が続いている。

 

那覇空港で4月17日に発見された米国製250キロ爆弾=同日(那覇市提供)

<平和の礎25年>「命どぅ宝」の精神体現

 世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなった人々の名前を刻んだ「平和の礎」が1995年に設置されてから23日で25年の節目を迎えた。75年前は地獄絵図さながらの掃討戦が展開されていた摩文仁の地は、沖縄の「命どぅ宝(命こそ宝)」の精神を体現する場となった。敵味方区別なく氏名を刻んでおり、命の重みは平等だという沖縄の平和思想を世界に発信する拠点にもなっている。設置以来、県内外の多くの来場者が静かに祈りをささげている。

 市民から推薦を受けたノーベル平和賞委員会が、礎を創設した故大田昌秀元知事を受賞者候補にノミネートした経緯もある。沖縄戦で連合軍と戦った旧日本軍第32軍の組織的戦闘が終了した糸満市摩文仁の平和祈念公園内に建つ118基の碑には、24万1593人の名前が刻銘されている。設置時から7410人増えた。

 「平和の礎」は県の「太平洋戦争・沖縄戦終結50年事業」の目玉事業だった。91年に建設基本構想に関する懇話会が設置され、4年かけて完成した。一方、大日本帝国の植民地だった朝鮮半島から強制動員された朝鮮人犠牲者の正確な人数は今でも不明だ。碑には全ての犠牲者が刻まれているわけではなく課題が残る。

今年の「慰霊の日」にもたくさんの人が平和の礎を訪れた=23日、糸満市摩文仁の平和祈念公園

<全戦没者追悼式>開催方針、二転三転
 慰霊の日に開催する沖縄全戦没者追悼式を巡り、県は新型コロナウイルスの感染拡大防止を理由に追悼式の会場や参加規模について方針を二転三転させた。沖縄戦研究者らでつくる「沖縄全戦没者追悼式のあり方を考える県民の会」は会場を当初、国立沖縄戦没者墓苑とした県の姿勢を疑問視し、沖縄戦の教訓を踏まえた追悼式の理念や開催方法を改めて議論するきっかけにつながった。

 玉城デニー知事は5月15日の定例記者会見で追悼式の規模縮小と、国立沖縄戦没者墓苑への会場変更を発表した。参加者が少ないため広い場所が不要なことに加え「墓苑には遺骨が眠っており、戦没者により深く追悼の意を表すことができる」と変更の理由を述べた。

 一方、識者らは「国家の施設」での開催に「住民視点の追悼式が国の思想に引っ張られる」と危機感をあらわにした。同29日の定例記者会見で玉城知事は再検討を表明し、6月12日に例年通り平和祈念公園内の広場で200人規模による開催を発表した。方針転換の理由は県内の感染状況が落ち着き、参列者数を見直した結果だと説明した。

<32軍司令部壕>公開求める声強く
 那覇市の首里城の地下にある日本軍の第32軍司令部壕を巡っては、保存した上で一般公開を求める声が上がっており、琉球新報社などが戦後75年の「慰霊の日」を前に実施した県民意識調査でも「保存し、公開すべきだ」という回答が74・16%を占めた。玉城デニー知事は今年2月に、就任後初めて現場を視察しているが、県は崩壊の危険性や壕内の酸素の欠乏などを理由に、一般公開は難しいとの立場を取っている。

 戦争中、牛島満中将率いる第32軍は、首里城の地下に大規模な壕を掘り、司令部を構えた結果、米軍の猛攻を受け首里城は灰じんに帰した。第32軍は司令部壕を放棄し、南部の摩文仁方面への撤退を始めたため、既に南部一帯へ避難していた住民を巻き込み、おびただしい数の犠牲者を出した。県は昨年10月の首里城焼失を受け、4月に示した首里城復興基本方針で、第32軍司令部壕は崩落の危険性があり「公開は困難」と説明。AR(拡張現実)などのIT技術を用いて内部の公開を検討するとしている。一方、「第32軍司令部壕保存・公開を求める会」(瀬名波栄喜会長)は現場公開を求めている。