沖縄県立一中の2年生の時、一中通信隊として戦場に動員された安里祥徳さん(90)から体験談が届きました。安里さんは日本軍と共に南部へ撤退し、糸満市摩文仁で捕虜になります。その後、ハワイ、米カリフォルニアの収容所に送られます。
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安里さんは1930年1月、南米ペルーのリマ県にあるボカネーグラ耕地で生まれました。ペルーは、中城村(現北中城村)喜舎場出身の父祥昌さん、母カナさんの移住地です。安里さんは37年まで暮らし、喜舎場に引き揚げます。祥昌さんはその後、ペルーに再渡航しました。
祥徳さんは喜舎場尋常高等小学校で3年生の1学期まで学んだ後、首里第二尋常高等小に転校します。県立女子工芸学校(後に首里高等女学校に改称)に進学した姉や同じ喜舎場出身の生徒のため、カナさんは首里で下宿を営みました。
43年4月、祥徳さんは県立一中に入学しました。授業ができたのは44年4月まででした。
「5月から陣地構築の奉仕作業が始まりました。小禄の飛行場、与那原では特殊潜航艇の基地を造りました。大里城跡では砲台造りもやった。教員も監督として奉仕作業に参加しました。授業はできなかったです」
10月の10・10空襲の日は首里大中町にいました。
「朝7時半、これから奉仕作業に出ようという時に空襲警報が鳴りました。空を見上げたら米軍機が飛んでいた。西海岸にあった日本軍の艦船が火柱を上げて燃えていました」