特別評論 きょう慰霊の日 沖縄戦75年継承の岐路 民の視点で向き合う 島袋貞治(社会部長)


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島袋貞治・社会部長

 9年前の夜、上原徹さん(91)=浦添市=が沖縄戦の体験を初めて語った。「友人を助けられなかったことが心に引っ掛かっていた」。家族が経営するレストランに記者や知人を招き、食事を済ませてから語り始めた。晩さんは語るために必要な儀式といえ、静かな覚悟を感じた。長い沈黙は友を救えなかった後悔からだった。取材を申し込み、2年が経過していた。

 戦後世代は平和の尊さ、戦争の愚かさを学び、継承したいと「当時の体験を教えてほしい」と投げ掛ける。その言葉が体験者を追い込んではいまいか。上原さんと出会い、自問した。

 那覇の9割を焼失させた1944年の10・10空襲時、上原さんは県立第一中学校4年生だった。警察官不足を背景に45年2月、17歳で少年警察官に採用、那覇市繁多川の県庁壕に配置された。島田叡知事らとも接し、沖縄戦による県政の消滅に立ち会った。戦況悪化に伴い南下した。

 上原さんは糸満市で自由行動を言い渡された後、一中鉄血勤皇隊の同級生、崎間福昌さんと行動を共にした。6月25日、上原さんは糸満市山城近くの海岸で一人水浴びしていたところ、米軍に拘束された。崎間さんの休息場所から爆発音が聞こえた。米軍の攻撃か、手りゅう弾を自ら爆発させたかは分からない。崎間さんの安否を確かめられないまま収容所に送られた。その別れが重しとなり、上原さんは戦争を語ることを避けてきた。

 沖縄戦では軍民混在の地上戦が展開され、日本軍のスパイ視による住民虐殺や「集団自決」(強制集団死)で多くの住民の命が奪われた。「人が人でなくなる」という地獄絵図を生き抜いた人を戦後も苦しめる。14年10月14日付の本紙コラム「記者の窓」で、社会部記者として上原さんを紹介した。合わせて「10年前に社会部にいたころよりも、本紙に連絡を寄せる体験者が増えたと感じる」と書いた。「沖縄戦を伝えたい」という体験者の電話は戦後60年よりも戦後70年が多かったと覚えている。それから5年余が経過した今、同じような電話は少ない。一方、本紙連載「読者と刻む沖縄戦」に体験者の投稿が相次いでいる。

 「もう忘れてください。私のことは」。今月、別の取材で知り合った体験者に連絡を入れると、そう告げられた。別の体験者は15歳で沖縄戦を体験し、家族も知らない秘密を語ったが、記事にすることは応じなかった。連絡を取ると、入院しているという。

 新型コロナウイルスの感染防止のため、ことしは沖縄全戦没者追悼式をはじめ、各地の慰霊祭・追悼式は規模縮小または中止を余儀なくされた。休校の長期化で、学校における平和教育の時間も減った。戦争体験と教訓の継承は今後どのように進むのか。今、その岐路に立つと実感する。

 1999年、県平和祈念資料館におけるガマを再現する展示内容を巡り、行政担当者が住民に銃を向ける日本兵の当初案から、銃を取り払う案に変更するよう指示したことが明るみに出た。展示内容を決める監修委員に無断だった。国に忖度し、日本兵の残虐性を薄め、沖縄戦の実相をゆがめようとした県行政の暴走といえ、反発を招いた。

 ことしの沖縄全戦没者追悼式の会場を巡り、県は従来の平和祈念公園の広場から国立沖縄戦没者墓苑に変更すると決めたが、有識者らが反対の意思を示した。沖縄戦が住民視点で語られなくなるとの警戒感は強く、やがて玉城デニー知事は広場に戻した。

 コロナ禍に伴い、私権制限を可能とする緊急事態宣言が法整備された。戦前と同じような全体主義につながらないか。戦争体験を語り、学び、つなぐ意味は悲劇を繰り返さないことにある。「戦後」であり続けるためにも、沖縄戦の実相に民の視点で向き合うことを忘れてはならない。戦後80年、100年に向け、語ることのできない思いに向き合うことも求められてくる。平和の礎に刻まれた24万人余の沈黙に耳を澄ませ、想像力を働かせよう。

 「こんなに暗く、わびしいところだったのか。住民は軍隊に虐待され続けた。二度と戦争を起こしてはいけない」。県庁壕を共に訪ねた上原さんの言葉だ。今年の慰霊の日、上原さんは自宅で正午の黙祷をする。