米軍が首里に迫り、電信第36連隊は1945年5月27日、南部に撤退します。安里祥徳さん(90)=北中城村=がいた第5中隊は雨の中、真和志村(現那覇市)繁多川の壕を出ました。撤退前、カンパンや戦死者が持っていた銃の配給がありました。
《夜8時ごろ、われわれは銃を担う一方、担架に負傷兵を担いで壕を出た。外は豪雨だった。わが中隊は識名、南風原、東風平に向かった。どこから寄せてきたのか、いつの間にか暗闇の雨の中を南に向かってさまよう大群衆が出来上がった。群衆は身内の仲間からはぐれまいと大声を張り上げて叫び合い、悲鳴を上げたりして、泥に足を取られながら南へ流れた。》
安里さんは「撤退は大混乱でした」と語ります。
「島尻撤退の時は田んぼのような道になっていてね。歩いていて、片方の靴が泥に引っ張られて底が抜けてしまったんです。それで死んだ兵隊の靴と履き替えたんですよ」
負傷兵を担ぐのは苦痛で、何度も担架を放り投げたい気に襲われました。負傷兵がかぶっていた毛布が雨水で重くなっていたので捨ててしまいました。学友の渡久山朝雄さんに「安里頑張れ」と励まされ、歯を食いしばりました。
夜が明け、安里さんは凄惨(せいさん)な光景を目にしました。
《兵士や住民の死体が散乱し、多くの負傷兵や住民が泥の中を四つんばいにもがき、うごめいていた。》