兵士が住民の壕奪う 安里祥徳さん 捕らわれた日(18)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
糸満市摩文仁に残る住民の共同井戸

 負傷兵を担架で運び、真和志村(現那覇市)繁多川の壕から南部へ向かった安里祥徳さん(90)=北中城村=は泥道に倒れた兵士や住民を目にしました。

 《所属する部隊や家族からはぐれた孤独な負傷兵や住民がもがいていた。野戦病院を尋ねる者がおれば、「私は生きています。踏まないでくれ」と声を掛けるあおむけの負傷兵もいた。だが、われわれは自分たちの負傷兵を担ぐので精いっぱいで、もがく負傷兵や住民を誰一人助けることができなかった。》

 1945年5月27日の晩に繁多川を出た安里さんら電信第36連隊第5中隊は真和志村(現那覇市)識名、南風原村(現南風原町)津嘉山、高嶺村(現糸満市)与座、摩文仁村(現糸満市)米須などを経て、同村摩文仁の海岸の斜面にある共同井戸近くの自然壕に集まります。

 負傷兵を運んでいた安里さんらは摩文仁への到着が遅れました。先に着いていた通信隊の仲間から「第5中隊の兵士が摩文仁住民の壕を奪った」という話を聞かされ、驚きます。「軍の命令」として住民を壕から追い出したのです。

 鍋や釜を持って壕を去るお年寄りや子どもたちを見ていた学友は「とてもかわいそうだった。見ていてつらかった」と安里さんに明かしました。

 第5中隊は住民から奪った壕に入ることで、兵士の命を守りました。そのことが戦後、安里さんの心の傷となりました。