屋嘉収容所で仲間と再会 安里祥徳さん 捕らわれた日(20)<読者と刻む沖縄戦>


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金武町の屋嘉収容所跡地

 1945年6月22日、摩文仁村(現糸満市)摩文仁の海岸をさまよっていた安里祥徳さん(90)=北中城村=ら3人は日本軍の下士官に「捕虜になれ」と説得されます。下士官は「われわれは敵陣地に斬り込みに行く」と安里さんらに告げました。3人は説得に従います。

 《6月23日、私ども3人は摩文仁の共同井戸方面に向かって歩き始めた。明るい日差しの浜辺には軍人や民間人の多数の死体があった。われわれは共同井戸側の道を通って丘陵地にたどり着き、近くにたむろしていた米兵たちに向かって両手を挙げて投降し、捕虜になった。

 米軍はわれわれが拳銃や銃弾を隠し持っていないかを確認した上で、トラックに乗せた。トラックには既に捕虜になった十人余の軍人が乗っていた。その中に陸軍少将の高級将校も混じっていた。》

 安里さんらはトラックで金武の屋嘉捕虜収容所に運ばれ、一中通信隊の仲間と再会します。傷病兵を共に担ぎ、「安里頑張れ」と励ましてくれた渡久山朝雄さんが手榴弾で命を絶ったことを知らされます。

 その後、安里さんは輸送船でハワイの収容所に送られ、さらにサンフランシスコの収容所に移動します。帰郷は45年11月のことです。開学したばかりの前原高校に編入しました。

 安里さんは「多くの同級生がけなげな人生を送ったことを誇りに感じている」と語ります。