西原町の幸地賢造さん(84)から体験記が届きました。家族で戦場をさまよい、糸満で米軍にとらわれます。家族を守ってくれた父への感謝を込め、初めて体験記をつづってくれました。
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幸地さんは1935年10月、南風原村(現南風原町)新川で生まれ、父の賢盛さん、母のカメさん、兄、姉、2人の妹らと暮らしていました。家は現在の沖縄南部医療センターの敷地にありました。「新川はやーどぅい(屋取)です。南風原の中でも小さな集落でした」と幸地さんは語ります。
賢盛さんは召集され中国に2度渡っています。帰郷後、伊江島で飛行場設営に当たりました。
その後、賢盛さんは日本軍によって新川に呼び戻され、軍のための食料調達を担います。「イモや野菜を集め、軍に提供する係です。父は当時、新川の区長だったため、そのような業務を担ったのでしょう」と賢造さんは話します。
兄は県立第一中学校に入学し、後に一中通信隊として戦場に動員されます。家族が戦争に巻き込まれていきます。
45年3月末、米軍の艦砲射撃が始まります。家族は家の背後にあった壕に隠れました。ところが壕近くに砲弾が落ちて家族が生き埋めとなり、危うく命を落とすところでした。
真和志村(現那覇市)真地にある母カメさんの実家近くに避難する考えでしたが、日本軍が高射砲陣地を構えており、隠れる場所はありませんでした。
「ここにいては危ない」。賢盛さんに率いられ、家族は南部へ向かいます。