摩文仁村(現糸満市)糸洲の集落で父の賢盛さんを失った幸地賢造さん(84)=西原町=の家族7人は、同じ民家にいた避難民と共に喜屋武に向かいます。1945年6月中旬のことです。米軍は喜屋武に迫っていました。
《僕ら母親、きょうだいは避難民ともども喜屋武を目指して歩き始めた。喜屋武の集落の西端を過ぎると家が1軒か2軒あった。石垣のそばにいる大人を見たら、母が『死んでいる』と言って腕をつかまれ、その場を離れた。右側には麦畑の中に井戸があって、死体が重なり合っていた。》
家族は来た道を戻り、喜屋武集落の東側へ向かいます。
《僕らも攻撃され、麦畑をさまよいながらも難を逃れた。そして茂みを目指した。アダン葉が生い茂っていて、そこに潜ると海が見えた。来た道を戻り、喜屋武集落を後にすると広い平野に出た。そこにトーチカらしい物がポツンポツンと幾つもあった。その一つに身を寄せた。》
賢造さんによると、トーチカのような建造物があったのは、1993年に開かれた全国植樹祭の会場となった「平和創造の森公園」(糸満市山城)と喜屋武集落の間にある原野だったのではないかとのことです。
トーチカのような物はいずれも南の海を向いていて、中で避難民が身を寄せ合っていました。そこに米軍は容赦なく攻撃を加えました。