幸地賢造さん(84)=西原町=ら家族が隠れたトーチカのような建造物を米軍が攻撃します。
《避難民も大勢いて身を潜めていた。騒ぎがした途端、弾が撃ち込まれけが人が大勢出た。生き地獄さながらであった。「出てこい、出てこい」という声が聞こえる中、あるお姉さんが腹部をやられ、「あやーよー、あやーよー」(お母さん、お母さん)と泣いていた。》
独特のイントネーションで米兵が投降を呼び掛けていました。「二世の兵士だったのではないか」と幸地さんは話します。腹部を負傷した女性は幸地さん家族が住んでいた南風原村(現南風原町)新川の顔見知りの女性でした。
命の危機が迫っていました。米軍が攻撃を続け、母カメさんもけがをしました。その後、1人の住民が手を上げて建造物を出て、幸地さんらも後に続きます。
《僕の母も弾が頭をかすめてけがをしていた。恐る恐る両手を上げて後から出て行った。あまりの恐怖と緊張で、生まれて初めて見る米軍は日焼けで赤鬼黒鬼に見えた。捕らわれてみて、そんなたくさんの人がいたんだと思った。》
幸地さんは「最初の1人が『大丈夫だよ』と言うので、みんな次々と出て行きました。最初の人は勇気があったんですね」と話します。
トラックに乗せられた住民は豊見城の宜保を経て宜野湾の野嵩収容地区に送られます。