日本軍駐屯 街が変わる 山城正常さん 捕らわれた日(28)<読者と刻む沖縄戦>


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山城正常さん

 南風原町宮平に住む山城正常さん(86)から体験記が届きました。1944年の10・10空襲を体験し、米軍上陸後は大宜味村や東村山中を逃げ回ります。山中では日本軍の敗残兵にも遭遇しました。
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 山城さんは1933年7月、那覇市若狭で生まれました。父正矩さん、母カメさんの間に生まれた7人きょうだいの次男です。現在の旭ヶ丘公園の近くの路地にあった長屋で暮らしていました。表通りに出ると、向かいには那覇地方裁判所がありました。沖縄戦の時は上山国民学校の5年生でした。

 若狭の海岸は憩いの場でした。6歳上の兄の正和さんと楽しく過ごした海でした。そして、海は悲しい場所でもありました。43年5月26日の嘉義丸の撃沈です。この船に正和さんが乗っていました。

 《長兄が国民学校高等科を卒業後、関西の軍需工場に徴用された。任務を終え、帰郷のため大阪から嘉義丸に乗船、沖縄に向かうが奄美大島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈された。戦時遭難船舶32隻の最初の船とされる。

 乗員乗客339人が犠牲となった。兄は幸いにも生還した。南西諸島近海は既に敵潜水艦の出没する危険な海になっていたのだ。その後、若狭海岸に腐った箱詰めのタマネギ、温州ミカンなどの漂着がしばしばあり、悲しみを募らせた。》

 嘉義丸撃沈は戦争の恐ろしさを身近に感じる出来事でした。翌年、正常さんの周囲で日本軍の駐屯が進み、街の雰囲気が変わっていきます。