慰安所に朝鮮人女性 山城正常さん 捕らわれた日(29)<読者と刻む沖縄戦>


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若狭の対馬丸記念館の周辺。近くに山城さんが住んでいた

 1944年3月、第32軍が創設され、沖縄への日本軍駐屯が進みます。学校や公共施設が兵舎などとして軍に接収されました。那覇市若狭に住んでいた山城正常さん(86)=南風原町=が通っていた上山国民学校も接収され、授業は中断します。

 陣地構築や飛行場建設に住民が動員されました。若狭でも軍の施設が築かれました。

 《若狭町在住者は南飛行場(浦添市仲西)に動員され、もっこを担ぎ、地ならしをさせられた。若狭の海岸線には石垣、岩場に穴を穿(うが)ち、銃眼が造られ、旭が丘、上之毛の高台には機関砲、那覇商校の校庭には高射砲が築かれた。》

 那覇港では軍事物資の陸揚げ作業に「朝鮮人軍夫」が駆り出されました。

 《満足な食料を与えられないまま、大勢の朝鮮人が働かされた。緊迫した危機感に駆られて暴力を振るう日本兵を確かに目撃した。》

 朝鮮人の女性たちの姿も見るようになりました。若狭町に隣接する松山町に「慰安所」ができたのです。現在の松山公園のあたりです。

 《松山町の空き屋の邸宅に「慰安所」が設けらた。若狭の炊事場に食料をもらいに通う若い朝鮮人女性たちに憐憫(れんびん)の情を示すどころか罵声を浴びせ、からかった。沖縄人も差別されたが、沖縄人も朝鮮人をそれ以上に蔑視し、差別していたのだと思う。痛恨の極みだ。》