1944年3月、第32軍が創設され、沖縄への日本軍駐屯が進みます。学校や公共施設が兵舎などとして軍に接収されました。那覇市若狭に住んでいた山城正常さん(86)=南風原町=が通っていた上山国民学校も接収され、授業は中断します。
陣地構築や飛行場建設に住民が動員されました。若狭でも軍の施設が築かれました。
《若狭町在住者は南飛行場(浦添市仲西)に動員され、もっこを担ぎ、地ならしをさせられた。若狭の海岸線には石垣、岩場に穴を穿(うが)ち、銃眼が造られ、旭が丘、上之毛の高台には機関砲、那覇商校の校庭には高射砲が築かれた。》
那覇港では軍事物資の陸揚げ作業に「朝鮮人軍夫」が駆り出されました。
《満足な食料を与えられないまま、大勢の朝鮮人が働かされた。緊迫した危機感に駆られて暴力を振るう日本兵を確かに目撃した。》
朝鮮人の女性たちの姿も見るようになりました。若狭町に隣接する松山町に「慰安所」ができたのです。現在の松山公園のあたりです。
《松山町の空き屋の邸宅に「慰安所」が設けらた。若狭の炊事場に食料をもらいに通う若い朝鮮人女性たちに憐憫(れんびん)の情を示すどころか罵声を浴びせ、からかった。沖縄人も差別されたが、沖縄人も朝鮮人をそれ以上に蔑視し、差別していたのだと思う。痛恨の極みだ。》