1944年の10・10空襲に遭った山城正常さん(86)=南風原町=の家族は父方の祖父がいる現在のうるま市安慶名に避難しました。
途中、宜野湾の松並木を通りました。「那覇からの避難民でごった返していました」といいます。夜通し歩き、安慶名に着いたのは朝の9時ごろでした。そこで10日余を過ごします。
《十数日後、避難先から戻って見た那覇市は灰じんに帰し、見る影もなく、こんなに狭かったのかと正直びっくりした。
焼け残った若狭町も県内外への避難で人影が消え、ゴーストタウンを思わせる情景に変わった。やがて空襲で焼け出された人々が移住してきて人口も増えたが、昔の賑(にぎ)わいとはほど遠く、軍車両、日本兵の動きのみが活発で、喧噪(けんそう)を極めていた。》
那覇港で荷役をしていた朝鮮人が多数犠牲になったという話を後に聞きます。
11月、沖縄に配備された日本軍の中でも精鋭と言われた第9師団の台湾転用が決まります。45年2月以降、戦力不足を補うため県民が防衛隊として動員されました。兄の正和さん、父の正矩さんも日本軍に取られます。
《嘉義丸から生還した長兄が不幸にも再び首里防衛に召集された。17歳だった。家族はひたすら幸運を祈って送り出すしかなかった。父は小禄の海軍部隊に召集されたが、短期で解放された。後々、それが大きく幸いした。》