食事配給に長蛇の列 岳原初子さん 収容所で(4)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
現在の名護市田井等の集落

 東村有銘から山奥に入った岳原初子さん(86)=沖縄市=の避難生活は突然終わりを迎えます。掃討作戦を続けていた米兵が山に火を放ったのです。

 「バチバチと山が焼かれ、父が『ここにいては危ない』と言うので山を下り、そのまま米兵に捕らわれました」と岳原さんは語ります。父の有堅さんは日本兵に間違われ、一時石川に連行されました。

 《戦争の恐ろしさや憎らしさ、夢にまで見る怖さ。徐々に山が焼かれ、逃げ場がなくなる。このまま、ここで死ぬよりは…と捕虜になった。》
 米軍への恐怖はありましたが「米兵も同じ人間ではないか」とも考えました。「山を下りたら、そこには米兵がたくさんいました。殺されるなら皆一緒。でも殺されるかどうかは分からない、と思いました」

 米軍に捕らわれたのは「7月か8月の暑い頃だった」と岳原さんは話します。その後、トラックで羽地村(現名護市)田井等の収容地区に運ばれ、一軒家の馬小屋で暮らします。食糧は不足していました。

 「朝夕、おにぎりの配給がありました。最初は大きなおにぎりでしたが、だんだん小さくなりました。小さなおにぎりをもらうため、大人も子どもも並びました。200メートルくらいの長い列ができました」

 体調を崩した母のために2個のおにぎりを求めましたが、配給係に断られ、悲しい思いもしました。