10・10空襲、自宅に機銃掃射 山入端立雄さん 収容所で(8)<読者と刻む沖縄戦>


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かつて兼久集落があった地は嘉手納基地となった

 1944年10月の10・10空襲で、米軍は中飛行場と北飛行場を攻撃します。この日、山入端立雄さん(85)=読谷村=は北谷村(現嘉手納町)兼久の自宅にいました。

 《朝、ものすごい轟音(ごうおん)に驚き、屋外に出てみると、朝日を背にした無数の飛行機編隊だった。最初は日本軍の演習だと思って見ていたが、編隊は北(読谷)飛行場への爆撃を始め、黒煙が上がった。》

 立雄さんは木に上って米軍機の編隊を見ていたら隣のおじいさんが「敵の空襲だ。防空壕に入れ」と命じました。家族は屋敷内の防空壕に避難しました。家は機銃掃射であちこちに穴が開いたといいます。

 《爆撃は夕方まで続いた。静かになってから南の方向を見ると那覇方面の空は赤く染まり、モクモクと煙が立っていた。》

 年が明け、20歳になった兄の立盛さんは海軍に志願し、佐世保の海軍に入隊しました。志願を告げた立盛さんを父の三良さんは厳しく叱ります。

 《立盛兄が父の前に座り「海軍に甲種合格したので兵隊に行く」と告げるのを、父三良はたばこ盆にキセルをたたきつけながら聞いていた。「他の同級生は志願しないのに、なぜ君は志願したのか」と、父の怒りはものすごいものがあった。》

 立雄さんは「跡取りの長男がいなくなるんです。父はやりきれない思いだったんでしょう」と語ります。