北谷から金武、羽地に避難 山入端立雄さん 収容所で(10)<読者と刻む沖縄戦>


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鍾乳洞のある金武観音寺

 北谷村(現嘉手納町)兼久の海岸近くにある按司墓の壕に避難していた山入端立雄さん(85)=読谷村=の家族は米軍上陸前日の1945年3月31日、金武に向けて、出発します。

 《父が「日が暮れて砲弾が弱くなる頃合いを見て、ここを出て金武に向かう」と話し始めた。「私たちを金武の壕に避難させた後、翌日には祖母たちを迎えにまた戻ってくる」と話して、一人一人に1個のニジリサーター(茶わんで握りこぶし大に固めた黒糖)と10円の金を風呂敷に包み、背負わせた。》

 家族6人はこの夜、壕を出ます。父の三良さんはウフヤー(本家)の家族も疎開させるため、兼久に戻るつもりでした。しかし、それは果たせませんでした。「翌日、米軍が上陸したため、北谷に行けませんでした」と立雄さんは話します。家族は4月1日朝、金武に着きます。

 三良さんは金武観音寺にある鍾乳洞に避難する考えでしたが、洞内に入ることはできませんでした。結局、北谷村の疎開地に指定されている羽地村(現名護市)を目指します。

 《金武村の中道を東方に向かって歩き、金武の橋まで来たとき、敵機の飛来攻撃が始まった。私たちは橋のすぐ近くにあった松の木の下に隠れた。》

 家族が羽地に着いたのは2日の朝です。一方、北谷村に残ったウフヤーの家族は1日、上陸直後の米軍に捕らわれました。