空襲激化、父が避難先探す 山入端立雄さん 収容所で(9)<読者と刻む沖縄戦>


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嘉手納マリーナ内にある野國總管の墓

 米軍の沖縄上陸が迫る1945年2月、県は沖縄本島中南部住民の「北部疎開」計画を立て、県内市町村に伝えます。当時の北谷村は羽地村(現名護市)仲尾次に「北谷村役場羽地分所」を置き、疎開業務を急ぎます。

 3月中旬以降、米軍の空襲が激しくなり、山入端立雄さん(85)=読谷村=の住む兼久でも危機感が広がります。父の三良さんは避難先を探します。

 《自家の防空壕では防げないと感じた父は、家から南方500メートルほど離れた川沿いにある大きな按司墓(洞窟)に家族6人を移動させた。》

 按司墓は米軍嘉手納マリーナ内にある「野國總管の墓」の近くにありました。按司隣の墓にはウフヤー(本家)の祖母らも避難しました。日が暮れて空襲がやむと食糧を取りに家へ戻りました。

 3月末、米軍の艦砲射撃が始まりました。立雄さんの5歳上の姉、静子さんは羽地への疎開を三良さんに求めます。

 《今まで耐えていた静子姉が「同じ死ぬ運命なら、皆が避難している羽地に行った方が良い」と父に申し出た。父は苦しかったと思う。羽地に向かうとなると、ウフヤーのウフンーメー(祖母)達を残していかなければならない。》

 最終的に家族は3月31日、羽地に向かいます。「父は自らの母親を残して疎開してよいのか悩んだのではないか」と立雄さんは語ります。