妻が収容所内で出産 與儀喜省さん 収容所で(22)<読者と刻む沖縄戦>


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米軍の司令部が置かれた旧久志小学校

 與儀喜省さん(101)は親類に会うため訪れた宜野座で1945年8月15日の敗戦を知ります。

 《皇国不滅不敗の念が強かったその頃、敗戦は半信半疑であったが、不利な戦況を考えると間違いないと思ったりする。》

 米軍は9月12日に「地方行政緊急措置要綱」を出し、瀬嵩収容地区にあった9市を統合して新たに「瀬嵩市」が生まれます。市長選挙では女性の参政権が認められ、豊見城出身の瀬長清さんが瀬嵩市長となります。

 與儀さんは学校を辞め、市役所に勤めるようになります。「市長選挙で瀬長清氏が馬に乗って選挙運動をしたこと、女子の投票が印象深い」と振り返ります。

 10月、妻の信子さんが臨月を迎えました。親しくなっていた軍司令部のダグラスという名の中尉が出産を待っていました。

 《中尉と親しくなり、赤ちゃんが誕生するのを待って「まだ生まれないか」と何度も聞かれた。

 昭和20年10月19日午後2時半、めでたく坊やが誕生、中城村伊舎堂のハワイ帰りの比嘉さんという産婆さんが取り上げてくださって、ありがたく感謝した。

 「喜男」と命名。ダグラス中尉に告げると大変喜んで「Jimmy」(ジミー)と名付け、大型の懐中電灯と蚊帳を持ってきた。》

 マラリアと食糧難で、多くの避難民が犠牲となりました。與儀さんの祖母、伯母も亡くなりました。そんな中、収容地区で新たな命が生まれました。