「30年先の市民に緑を」憩いの場に込められた思い 名護市21世紀の森公園・為又区<息づく街・変わる街並み>⑥


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
名護市民会館、21世紀の森公園体育館などが立ち並ぶ国道58号バイパス沿い=26日、名護市(大城直也撮影)

 名護の高速道路を下りた許田から伸びる国道58号バイパスは、北部の市町村と中部をつなぐ大動脈だ。名護湾に沿って西へ伸び、21世紀公園付近の宮里区でぐるりと弧を描いて北東の国頭村方面へ向かう。

 名護の街は1970年の1町4村合併による市の誕生後、埋め立てとバイパス開通によって大きく姿を変えた。名護市役所近くに、国道58号を挟んで広がる21世紀の森公園。名護湾の埋め立てが完成した74年、市はスポーツ・文化施設と一体化した「21世紀の森」計画を策定した。

 国道58号は元々、名護の中心市街地を通る片側1車線の道路だった。75年の沖縄海洋博覧会に向けてバイパス整備が始まり、同年に許田―宮里間が4車線に拡幅された。並行して公園の建設も進み、77年に市営球場が開場した。公園の隣には75年からバスターミナルがあったが、83年に宮里区に移転。跡地に市民会館が建設された。

 72年に市職員になった前名護市長の稲嶺進さん(75)=市大北=は公園整備を間近に見てきた。埋め立て地は当初、宅地開発をする計画だったが「名護は市民が憩う空間がない。公園にすべきだ」との声が若手職員から上がり、公園整備に転換したという。

 防潮防風林のモクマオウ植樹には市民が多数参加。稲嶺さんら職員も、市営球場の土をならしたり市民会館の芝生を一枚一枚植えるなど汗を流した。「埋め立てで美しい海岸線は失われたが、30年先の21世紀の市民に緑を贈ろうとの思いが込められていた。今思えばかなり先取りした計画だった」と懐かしげに語った。

名護下水処理場から撮影した国道58号バイパス周辺。現在の名護市民会館の敷地内にバスターミナルがあった=1980年ごろ、名護市(市教育委員会提供)

 バイパス整備はさらに進み、88年に宮里―伊差川間が全面開通。94年には市稲嶺まで延伸した。為又(びいまた)や大北といった沿線地域に商業施設が次々進出し「街の中心が商店街からバイパス沿いに移った」との指摘も。周辺は宅地造成が進んだ。

 80年ごろまでは山林が広がっていた為又区。島袋昌也区長(58)は80年代以降の開発の盛況ぶりを「区画整理されると次々に住宅が建った」と振り返る。94年には名桜大学が開学し学生用アパートも増えた。

 70年に408人だった為又の人口は90年に1052人、現在は4120人と加速度的に増えた。島袋区長は「農業振興地域の指定が解かれたら、宅地に使える土地はまだある」と可能性を語る一方、約15%と低迷する自治会加入率を憂う。「運動会など区の行事も高齢者ばかり。若者の加入が進み、地域のつながりが築けるといいのだが」。ぽつりとつぶやいた。
 (岩切美穂)