人口一時16倍、栄養失調やマラリアも「宜野座村の戦争」伝える企画展 


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企画展を見学する人たち=12日、宜野座村立博物館

 【宜野座】宜野座村立博物館で戦後75年を記念し、企画展「太平洋戦争と宜野座村」が開かれている。30日までで、入場無料。写真パネルのほか、期間中は共同墓地の死亡者名簿や教育勅語謄本なども展示する。

 宜野座村は1945年4月に米軍が本島に上陸した直後、米軍に占領された。村民に加えて、中南部からの避難民や保護された人たちなどが集まり、人口が約10万人にもなった。現在の村の人口約6千人に比べ十数倍にもなる。

 共同墓地名簿と教育勅語謄本は普段は館内の収蔵庫に保管しており、一般公開は5年ぶりになる。死亡者名簿は「古知屋共同墓地」と「福山共同墓地」のもので1029人分。戦傷や栄養失調、マラリアなどで多くの人々が亡くなり、村内9カ所の共同墓地に埋葬された。若い男性や日本兵は屋嘉収容所(現在の金武町)に送られたため、宜野座での埋葬作業は老人や子どもが担った。埋葬が間に合わず、一つの墓穴に4~5人を埋めることもあったという。

 国家への忠誠を説く教育勅語は、憲法の趣旨と合わないことから1948年に国会で破棄が決定されたため、現存するものは貴重だという。

 同博物館が所蔵する教育勅語は、戦時中に久茂地国民学校校長だった岸本幸全さん=故人=が保管していたもの。当時の校長には御真影と教育勅語を命懸けで守ることが義務付けられており、岸本さんも教育勅語と御真影を持って北部に避難した。写真は焼却したが、教育勅語は戦後まで持ち続けた。岸本さんが沖縄戦下に宜野座村に収容され、松田小校長を務めた縁もあり、遺族が村に寄贈した。

 宜野座村教育委員会の田里一寿さんは「沖縄戦といえば中南部の戦闘がイメージされるが、『収容地』となった宜野座村では状況は違った。沖縄戦の多様さを知ってほしい」と話した。

 月曜、祝祭日休館。午前9時~正午、午後1~5時。問い合わせは(電話)098(968)4378。