屋根と壁はテントのカバー 当真嗣寿雄さん 故郷へ帰る(12)<読者と刻む沖縄戦>


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 久志村(現名護市)から真和志村(現那覇市)楚辺に引き揚げてきた当真嗣寿雄さん(77)=那覇市=が住んだ規格住宅は、戦後の文化財保護に力を尽くした建築家・仲座久雄さんの設計によるものです。「きかくやー」(規格家)とも呼ばれました。約7万5千棟建てられています。

 《規格住宅は手狭である。端ぐゎーと言って母屋に部屋を付け足して広くした。》

 当真さんは「間口3間、奥行2間、広さは約6坪。屋根と壁はテントのカバーでした。ツーバイフォー(2×4)の建材を使った合理的な住宅です。この家に祖父母と両親、きょうだいで暮らしました」と語ります。この時、家族は10人になっていました。

 台風襲来は怖かったといいます。近所にあるトタン屋根の家に避難しました。家族が多い当真家は経済的に苦しく、屋根はカバーのままでした。

 《台風が接近すると隣家へ避難してお世話になった。父は風が吹きすさぶ中、壁の隙間からわが家をのぞいては「まだ建っている」と一人つぶやいた。母屋の四方に出した端ぐゎーがつっかい棒の役目をして倒壊を免れたのである。》

 それでも屋根のカバーははがれてしまいました。台風が過ぎ去った後の父・嗣成さんの落胆した姿を覚えています。

 「父は家の中から青空を見上げて、ため息をついていました」