written by 普久原 均
一度きりなのに、忘れられない出会いというものがある。
学生時代、友人と二人で中国を約1カ月、貧乏旅行した。中国の東海岸から西の砂漠地帯まで、ドミトリーと呼ばれる数人一部屋の安宿を泊まり歩く日々。列車での深夜の移動は、「硬座」と呼ばれる木でできた固い椅子を寝台替わりにするという、なかなか過酷な旅だった。
でも旅先で会った市井の人々からは温かいもてなしを受けた。たぶん外国人の旅行客が珍しかったからに違いない。改革開放の開始から10年にも満たないころだ。北京の小さな食堂のおやじからは「おれのおごりだ」(中国語ができないので、身振り手振りと筆談から推測した意訳)と一皿余分にもらったし、列車で隣り合わせた女性は、売り子から窓越しに買ったばかりの果物を分けてくれた。
中でも忘れられないのは、シルクロードの果て・トゥルファンの町で会った10歳くらいの少年だ。小さな荷台を引き、旅行者を乗せて町の見どころを回っていた。町で見かけるのはアラビア語のような文字ばかり。ウイグル族の彼は漢字を知らないので、筆談も全く通じない。だが懸命に身振り手振りで伝えようとしてくれた。その様子があまりに健気だったので持参していた日本の切手やボールペンをあげると、お返しにとペーパーナイフや小さな帽子をくれた。手作りの工芸品だ。少年にとって精いっぱいのもてなしだろうことは察しがつく。純朴な優しさが胸に染みた。
自治なき人々
その新疆(しんきょう)ウイグル自治区で中国政府が多数のウイグル族を強制収容していると報じられた。住民を監視する大規模システム「一体化統合作戦プラットフォーム」(IJOP)を構築し、監視カメラの映像や携帯電話の中身などあらゆる個人情報を解析して、潜在的「危険分子」とみなした結果だという。国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)がIJOPの運用指示を記した中国当局の内部文書を入手、専門家の検証を経て文書は真正と判断した。
収容されたのは推定100万人以上と聞くと、何やら胸が騒ぐ。
ICIJに加わる英紙ガーディアンに、英国の中国大使館が文書は「全くのでっち上げでフェイクニュース」と答えたというが、本当だろうか。
清朝はこの地で住民に大きな自治権を与えていたが、1884年の新疆省発足以来、ウイグル人は政策決定の場から完全に排除された(王柯著「東トルキスタン共和国研究」)。自己決定権を失った少数者の悲しみは、沖縄の人なら容易に想像がつくだろう。沖縄も1609年に薩摩から侵攻され、1879年の「琉球処分」で独立王国の地位を明治政府から一方的に奪われたのだから。太平洋戦争後は米軍の統治下に差し出され、戦後も長く知事(に相当する職)を選挙で選ぶ権利さえ与えられなかった。
冒頭に述べた中国旅行の、最後の地は香港だった。そこでも道を尋ねる遠来の客に市井の人々は親切だった。その香港も「香港国家安全維持法」によって自治権が剥奪されつつある。
米中による対立激化は望まない。むろん日中間もそうだ。だが少数者の自治が奪われる成り行きにも心が痛む。中国をめぐる近年の騒動の向こうで、あの茶色い瞳の少年はどうしているだろうか。
普久原 均(ふくはら・ひとし) 1965年旧コザ市(現沖縄市)生まれ。早大卒。1988年入社。政経部、社会部、東京支社、経済部長、編集局長などを歴任。13年、統括デスクを務めた琉球新報・山陰中央新報合同企画「環りの海」で新聞協会賞。趣味は映画、食べ物屋めぐり。共著に「島嶼経済とコモンズ」(晃洋書房)、「戦争の教室」(月曜社)。
沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。