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翁長前知事の体調報道「あの4カ月」を振り返る(前編)<沖縄発>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

written by 与那嶺松一郎

 

 2018年4月6日付の琉球新報2面に、19行の短い記事が顔写真付きで掲載されている。見出しはこうだ。

「翁長知事が検査入院 きょう退院予定」

多数のフラッシュがたかれる中、名護市辺野古の埋め立て承認撤回方針を表明する記者会見会場へと入る翁長雄志知事(当時)。公の場に姿を見せるのはこれが最後となった=2018年7月27日午前10時半、沖縄県庁

 約4カ月後の同年8月8日に、現職のまま急逝することとなる翁長雄志前知事の体調の変化を報じた、最初の記事だった。

 この記事を皮切りとする翁長氏の健康問題を巡る一連の報道が、事実を冷静に伝えられていたかといえば、当時の取材の当事者として全く自信がない。何が正しいことなのか見当がつかない混乱した頭のままに、五里霧中をさまよい続けていたような気がする。

 忸怩たる思いに駆られることが多く、当時のことを振り返るのを何となく避けてきた。だが、記者が持つ情報は読者に開陳されなければいけない。今回のコラムの機会を利用して、報道の舞台裏を書き記しておこうと思う。

一報は東京から

 この年、私は4月1日発令の人事異動で政治部に配属されたばかりだった。沖縄県庁舎内にある記者クラブに詰め、私を含めて6人の政治記者の番頭役となるキャップ(現場統括)の任を与えられていた。

 毎週木曜日は政治部長に代わって会社に上がり、翌日紙面の政治関係の記事をさばくデスク業務も担うことにもなっていた。翁長知事の検査入院を報じた6日付の紙面をつくっていた4月5日は、異動して最初のデスク業務の日であった。

 デスク作業は順調に進み、さっさと仕事を切り上げて明日の勤務に備えようかという頃合いの午後10時20分ごろ、その一報はもたらされた。政治部と東京報道部で共有する、LINEグループへのメッセージだった。

沖縄県庁。地上14階建ての6階に県知事ら三役の執務・応接室がある。階下の5階に県政記者クラブの入る部屋があり、県内各報道機関が机を並べる。琉球新報は、県政キャップを筆頭に基地担当、企画部担当、総務部担当、土建・労働担当、県議会担当の計6人の記者が県政取材を担っている(担当部門は年度によって変更あり)

 「知事入院した?」

 翁長知事の入院という未確認情報を耳にした東京報道部の記者が、沖縄にいる政治部員に問い合わせてきたものであった。

 その短い一文を目にした途端に、私の心臓は早鐘を打ち出した。

 というのも、前任の政治部キャップからの引き継ぎなどで、既に3月の終わりごろから「翁長知事ががんを患っている」という話がまことしやかにささやかれていることが伝わっていたからだった。うわさは本当だったのかと、慌てだした。

 県の関係者に電話を入れると、実はこの日の晩、4月の人事異動で新たな顔ぶれとなった行政の部長らの顔合わせとして、翁長知事ら三役の呼び掛けで懇親会が開かれていたのだという。そして、翁長知事は懇親会をキャンセルし、部長らの前に姿を見せていなかった。いよいよ入院情報が真実みを帯びてきた。

真夜中の裏取り

 記者クラブ詰めの政治部の記者たちは、原稿を出し終え、遅めの夕食をとろうと居酒屋の席に着いたところだった。そこにかかってきた私からの電話で引きずり戻され、県庁や知事公舎、後援会事務所、翁長知事自宅などの関係先へと駆け出すこととなった。

 日付が変わって午前0時を過ぎると紙面を印刷に回さなければならない。事実確認の裏取りが明日の新聞に間に合うのかどうか、ぎりぎりの時間だった。持ち場に向かいながら、なじみの県幹部や議員などに片っ端から電話し、入院先を特定するように各記者に指示を出す。裏が取れれば原稿を紙面に突っ込むとレイアウト部署の整理部に伝え、部員からの報告を待ちながら、翁長知事の入院を前提にした予定稿に取り掛かった。

県知事選で初当選を決め、支持者と共にカチャーシーを踊る翁長雄志氏=2014年11月16日

 午後11時を回り、持ち場に散った記者達も向かった先で何の動きもなかったり、電話を取ってもらえなかったりで、経過報告は思わしくなかった。政治部最大の取材対象である県知事の所在と安否がつかめないというもどかしさ、締め切り時間が迫ることの焦り、そして、知事の病気入院が本当だったならば明日からの県政取材はどうなるのだろうという先行きの見えなさで、胸の動悸が収まらなかった。

 翁長知事が出てきて「こんな遅くに非常識じゃないか」と記者を一喝するのであれば、それでよかった。会社で予定稿を準備しながらも、情報が「ガセ」に終わることを念じる自分がいた。

「1面出しはいいのか?」

 午前0時が近づくころ、私と同じく4月異動で政治部に配属されたばかりの基地担当の明真南斗記者が状況を変えた。翁長知事に近い関係者とたまたま接触することができたという。

 「知事は最近体重が落ちていることもあり、病院で検査を受けるみたいだ。前日から病院に泊まって検査を受ける。検査を終えれば、明日には公舎に戻ると思う」という内容だった。

 がんなど具体的な病気が見つかっての入院ではないという点は想定していた事態とは違ったが、翁長知事が病院に入ったことは情報の通りであった。

 明日の新聞に掲載することを整理部に伝え、書ける情報だけに絞って予定稿を修正した。すると、この日の紙面全体を統括する整理部のスーパーデスクから指摘があった。

 「政治家の健康問題は政局、進退に直結する。1面に出さなくてもいいのか」

翁長知事の検査入院の一報は2面の2段見出しと、目立つ扱いではなかった。だが、この日以降、現職知事の健康問題は政界の最大の関心事となっていった

 この年、翁長知事の1期目の任期が11月に迫っていた。秋には県内政局の天王山である県知事選がやってくる。翁長知事の2期目出馬は既定路線と見られていたが、健康問題が浮上となれば事態は変わる。政局勘のある記者やデスクであれば、この時期の入院のニュースがどれだけのセンセーションを起こすのか想像が働く。

 だが、入手している情報はあくまで「検査」入院だ。1面扱いのニュースとなれば、重大な病気という認識が広がりかねない。検査して特に異常はないということであれば、先走った報道となってしまわないか。公人といえども人権やプライバシーを軽んじるわけにはいかない。たとえ、うわさ通りにがんを患っていたとしても、翁長知事は那覇市長時代に胃がんが見つかり、手術して公務復帰を果たした「がんサバイバー」の当事者でもある。政局がらみのニュース判断に尻込みもあった。

 果たして1面に押し出すべきなのかどうか。さまざまな思考が頭の中を駆け巡り、揺れに揺れた。締め切りをせかされる中で、健康不安をあおらない慎重な扱いが必要だと自らを納得させ、政治部のデスクとして1面出しはしない判断を伝えた。

 結果的に2面の2段見出しの扱いというのは、労力を掛けて独自の情報を印刷前に突っ込んだ割には、抑制的な扱いだったと言える。

 ひそかに流布されていたうわさを念頭に、重大な局面かもしれないという思いを抱きながらも、その確証を持ち合わせてはいなかったのがこの夜の顛末であった。

うわさの出どころ、今も知れず

 精密検査の結果、膵臓(すいぞう)に腫瘍が見つかったことを翁長知事が公表したのは、検査入院の報道から4日後だった。

 なぜ、公表のずっと以前から、翁長知事のがん説が流布していたのか。その出どころは今となっても分からない。

 翁長知事が検査入院のため病院に入ったというあの夜のリアルタイムの情報にしても、どのような経路をたどってメディアの間を駆け回ったのだろうか。情報の裏取りに走った4月5日の深夜、知事公舎前に出向いたのは琉球新報だけではなかった。記者からの報告によれば、複数社の記者が公舎の様子をうかがいに来ていた。

 翁長知事の病状に関わる真偽不明の情報は、その後も毎日のように出回った。「既に余命宣告されている」「進行がひどくて最初の病院では手がつけられず、別の病院に移ることになった」など、そうした不穏な情報が飛び込んできては肝を冷やし、県幹部や議員、後援会関係者への取材を繰り返した。そのたびに取材先の誰からも「そんな話は聞いたことがない」と一蹴され、疎んじられることが続いた。

 ただ、今振り返ってみると、当初は否定されても結果として事前のうわさの通りになったということが少なくなかった。本来ならば表には出ないインサイダー情報が、飛び交う情報に含まれていたのではないだろうか。

辺野古新基地建設反対を掲げて初当選した翁長雄志氏(右)の県知事就任後、官邸は直接の面談を拒んできた。菅義偉官房長官(左、現首相)が来県し、初めての会談に臨んだのは知事就任から約4カ月後だった=2015年4月5日午前、那覇市内

 翁長知事の動静に関心を寄せていたのは誰か。辺野古新基地建設に反対する翁長県政の誕生以降、国と沖縄県の対立がエスカレートしていった。当時の安倍晋三首相と菅義偉官房長官を中心とした官邸サイドや政権与党の自民党にとって、秋に控える県知事選での県政転換が至上命令であった。政府与党がうわさの出どころだとは言わないが、地元沖縄の情報を吸い上げるのに熱心であったのは間違いない。そして、情報を集めるだけの組織と実力を持っている。

 この時に限らず翁長知事にとって就任以来、どこに政府の内通者や情報提供者がいるか気の抜けない日々だったかもしれない。巨大な国家権力に立ち向かいながら体調が日々悪化していくという孤独と恐怖は、我々には計り知れない重圧だっただろう。

 そう思うと同時に、病状を探り、各方面にネタを転がして情報を集めるという我々記者の職業癖もまた、政府与党の情報収集システムの一端に与していたのではなかったかと省みることがある。取材の過熱もそうだ。「抜いた・抜かれた」のスクープ合戦に長年に身を置いていると、事件事故や人の生死など刺激が強くなるほどハイになり、ニュースの当事者の立場に思いを致す感覚がまひしてしまいがちな性分を私は否定できない。

【後編】翁長前知事、最後の大立ち回りと「ペンの出番」


与那嶺 松一郎(よなみね・しょういちろう) 1977年那覇市生まれ。2000年入社。中部報道、政治部、文化部、経済部などを渡り歩き、19年から経済部長。趣味は映画鑑賞。最近感動したのは娘と見た「ドラえもん」。


沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。