written by 与那嶺松一郎
前回のコラムで、翁長雄志知事(当時)が検査のため入院した記事(2018年4月6日付)を巡って、前日夜の紙面づくりの舞台裏を紹介した。記事を1面に出すことを見送って紙面の扱いを抑制的にしたこともあり、いたずらに健康不安をあおらないようにという姿勢をとることになった。具体的には、翌日の続報は、検査入院に関する沖縄県の正式な発表を報じるだけにとどめた。
翁長知事が日帰りの予定で人間ドックを受けたところ、医師から再検査の指示があり、午後の日程を取りやめてそのまま検査入院に入ったというのが県の発表だった。検査入院とともに、日本国際貿易促進協会(国貿促)の北京訪問団に参加する翁長知事の出張予定の取りやめも明らかになった。知事就任以来、元衆院議長の河野洋平氏を会長とする国貿促の訪中に3年続けて同行し、中国共産党ナンバー2の李克強首相が面談に応じるなど厚遇を受けていた。この外交日程をキャンセルにしてまでとは、やはりただの検査ではないのではないかという思いが膨らんだ。
私の脳裏には「がん」という真偽不明の情報が、前夜からこびりついて離れない。池田竹州知事公室長(現在は総務部長)の「どういった形の再検査かは私どもも報告を受けていない。検査結果を待って必要があればきちんと説明したい」という説明が、歯切れが悪いように思えて仕方なかった。
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背中を押した妻の言葉
その翌日の4月7日は、土曜で休みだった。この日は翁長知事が検査入院から退院することが県から予告されていた。出勤はせず、県から退院の知らせがあれば自宅からでも記事を出すつもりで構えていた。
他紙の朝刊を開くと、県が発表した知事の検査入院の記事を1面で報じ、中面でも2期目出馬を巡る政局への影響まで盛り込んだ読み物を仕立てていた。
うちはといえば、抑制的にという方針に基づいて、県の発表を伝える続報記事が2面に1本であった。政治部キャップとしては「新報の報道が弱いみたいじゃないか」と最悪の目覚めとなってしまった。
関係者の間では知事入院の話でもちきりだったが、出回る重病説は裏を取ろうとしても真偽を確認することはできなかった。錯綜する情報とさまざまな勘ぐりが過熱することに忙殺され、現場取材の責任者として嫌気がさしていた。他紙の朝刊と見比べて、「世間の関心に対して報道が抑制的すぎたのではないか」と焦りを抱きつつ、土曜でもあり、これから出勤したところで取材が進展するあてはなかった。
朝刊を閉じた私は、傍らの妻に愚痴をこぼし始めた。
「個人の健康問題を書き立てるなど品がない」「東京から情報が流れてきて、妙な意図を感じる」「憶測より、もっとすべきことがある。知事の容体は正式に分かった時点で書けばいい」
早い話が、抑制的な紙面づくりを正当化する言い訳を並べたのであった。
深夜帰りを繰り返し、育児も家事もほっぽり出しの私に、普段から恨み節をぶつける妻である。当然、私が休日に家庭を空けて仕事に出て行くことを良しとするはずがなかった。「だったら、その通りでいいじゃない。たまの休みなんだから、子どもたちを外で遊ばせるなりしてきてよ」と、知事の取材は週明けに回し、家庭人として休日を過ごす〝免罪符〟を得られるはずであった。
ところが、妻の反応は私の予想を大きく裏切った。
「うーん……、そうかなあ~? みんな記事に関心持っているはずよ。特に主婦は翁長さんのことを心配していて、少しでも情報が欲しいと思う。琉球新報で取材するのがあなたしかいないのなら、出勤した方がいいんじゃないの」
よりによって妻まで私を休日出勤に駆り立てるのか。やけっぱちで家を出て、行くあてもなく車を走らせた。知事が入院している病院や県庁、知事公舎の周辺をうろうろし、変わった動きや人の出入りがないかを見て回った。あわよくば翁長知事本人に出くわして独占取材ができたりしないかと期待したが、そうそうおいしい話に出くわすものでもない。
夕暮れ時を見計らい、県幹部や議員の自宅を回ってチャイムを鳴らす。休みの日にまで自宅に押しかけられ、知事の容体を聞かれる方もたまったものではないだろう。怪訝な顔をされるばかりで、これといって進展はない。会社に上がってデスクに状況を報告しながら、今後の取材方針を話し合う。
そうするうちに、鬱々としていた朝より心境はだいぶ落ち着いていた。家に居ても結果は同じであっただろうが、悩みを押し隠して何もせずにいるよりは行動に移した方が気の持ちようは楽になる。
あの朝、妻の言葉に背中を押されなければ、その後の取材は全く違うものになっていただろうと思っている。
「膵臓」の発表に戦慄
4月10日、最初の検査入院から退院した翁長知事は医師と共に病院で会見し、膵臓に「腫瘍」が見つかったことを公表した。腫瘍の切除手術を月内に行い、取り除いた腫瘍を検査して、良性か悪性かを確定させるという。悪性であれば、がん、ということになる。
腫瘍切除のため再入院する翁長知事は「医師からは根治する方向で治療をやっていけると説明を受けている」と語った。
だが、会見を聞きながら私は戦慄を覚えていた。実は「膵臓」というキーワードは、早くから出回っていた翁長知事のがん説でささやかれていた病部と一致していた。知事の健康悪化を指摘する真偽不明の情報が次第に信憑性を増していくようで、再び不安がもたげてきた。
翁長知事の体調は本当のところどうなのだろう。怪情報をうのみにできないという思いの一方で、県などの公式な情報も額面通りに受け取っていいのかという思いが募っていった。
時間があれば翁長知事の入院先の病院周辺を警戒する日々は続いた。病状をかぎ回る行為は取材先に疎まれる上に、いつまで続くのかあてもない。当人はもとより家族や関係者が嫌がることをどこまでやる必要があるのか、取材の意味を自問することも少なくなかった。そんな時には「翁長さんが大丈夫なのか、みんな知りたがっている」という妻の言葉を思い返し、なえる心を奮い立たせた。
県政取材の三大テーマ
2018年度の政治部の取材には、三大テーマがあった。
一つは秋に控えていた県知事選だ。
4年ごとに巡ってくる選挙ではあるが、県知事選を巡る県民の意識や報道は他都道府県と重みが違う。アメリカの任命制だった琉球政府の行政主席を県民自ら選ぶ権利を勝ち取ったという米統治時代からの自治の流れをくみ、選挙のたびに沖縄の政治史に重要な節目が刻まれる。
さらには、国政で安倍晋三首相(当時)の長期政権化と自民の一強政治が強まる中にあって、沖縄だけは翁長知事を領袖とする「オール沖縄」勢力が自民に煮え湯を飲ませていた。秋の県知事選は、沖縄の行政トップを決めるというだけにとどまらず、翁長県政打倒を至上命令とする安倍政権のメンツがかかった国政に直結する政治決戦となるのは間違いなかった。
県政取材の二つ目のテーマが、仲井真弘多前知事による辺野古沿岸部の埋め立て承認を、翁長知事が「撤回」するかどうかであった。
米軍普天間飛行場の辺野古移設に向けた新基地建設作業を物理的に止めるため、翁長県政は既に埋め立て承認の「取り消し」を実行していた。しかし、国との間で訴訟となり、裁判所の判断で「取り消し」は無効にされた。
新基地建設阻止を掲げた翁長県政には最後の手段として、「取り消し」と同じく工事を止める効果がある「撤回」の選択肢が残されていた。翁長知事は「撤回」に踏み込むのか、決断を下すならいつなのかが焦点となり、水面下の取材合戦が過熱していた。
三つ目として、その辺野古埋め立ての是非を県民に直接問うという「県民投票」の実施があった。過去には、沖縄の基地負担軽減をテーマにした県民投票が1997年に実施されているだけだ。辺野古移設について民意を問うのは初めてとなり、実施されれば辺野古移設の流れを大きく左右する可能性がある。
どれをとっても過去にないような大きなテーマが、一気に三つものしかかっていた。さらに、それぞれのテーマが相互に絡み合っていた。
例えば、秋に知事選を控える中で、翁長知事は埋め立て承認の「撤回」判断を選挙後の2期目に持ち越すのではないかという見方があった。「撤回」という最後のカードを切っても、「取り消し」の時と同様にすぐに国の対抗措置で無効にされてしまっては県政の打つ手が尽き、知事選にも不利に働いてしまうというような見立てが、まことしやかにささやかれた。また、撤回によって工事を止めた場合に、工事停止期間の損害賠償が埋め立て許認可事務に関わる県の職員に請求されるのではないかというリスクも指摘され、県の内部に「撤回」への慎重意見もあった。
それぞれの問題に翁長県政はどのような解を導き出していくのか。そんな複雑な連立方程式を解くようなところへ、翁長知事自身の健康問題という新たな変数が加わり、状況は混迷の色を増していた。
任期最後の平和宣言
沖縄が46回目の「復帰」の日を迎えた5月15日、膵臓の腫瘍を切除して退院した翁長知事は、会見を開いた。検査の結果、切り取った腫瘍は「悪性」だったとし、抗がん剤治療を続けながら公務復帰を目指すとした。
6月12日に開会した県議会6月定例会に、翁長知事はグレーの帽子を着用して出席した。「引き続き、公務に全力で取り組み、私に与えられた知事としての責務を全うしたい」と述べたが、かなりやせており、議場は神妙な空気に包まれた。同25日の一般質問に答弁者として出席予定だったが姿を見せず、本会議は空転した。投薬治療の日程が急きょ変更になったためという説明が行われたが、去就が一層注目される形となった。
6月23日の慰霊の日、糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた沖縄全戦没者追悼式で、翁長知事は帽子をとって壇上に立ち、頭髪のなくなった姿で平和宣言を読み上げた。沖縄戦で命を落とした県民のみ霊を慰める厳粛なあいさつだが、式典に参列する安倍首相を前に、基地問題で対峙(たいじ)する翁長知事がどのような言葉を直接発するのかという政治的な意味合いでも毎年注視されてきた。演壇後方のカメラ席から見ながら、2期目がなければこれが最後の翁長知事の平和宣言になるんだな、という思いがよぎった。
この時政府は、8月17日にも辺野古の海域に土砂の投入を始めると県に通知していた。翁長知事は「平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が普天間飛行場問題の唯一の解決策と言えるのか。日米両政府は現行計画を見直すべきではないか」と新たな軍事基地の建設に改めて異議を唱えた。例年のような強い語調ではなかった。そこに病気の影響をうかがわせたが、静かな口調はかえって諭すようで印象的でもあった。
春先に県政キャップに就いたはいいが、ほぼ同時に翁長知事が入院し、直接接触する機会を持てないままだった。キャップを名乗るのもはばかられるような思いを抱いたまま、夏になろうとしていた。
「本当のところ体調はどうですか」「知事選立候補は無理じゃないですか」「辺野古新基地反対、政府の圧力に押されていませんか」
数少ない公務に知事が姿を見せるたびに、心の中で問いをぶつけた。今は霧の中でも、全ての答えが明らかになる時がいずれやってくると思いながら、翁長知事の一挙手一投足を目に焼き付けようとした。
「撤回表明」雄弁の裏で
先に挙げた三つの懸案のうち、最初に答えが出たのが辺野古埋め立て承認の撤回だった。
7月27日、県庁で記者会見した翁長知事は、前任の仲井真知事が認めた名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を撤回する手続きに入ることを正式に表明した。
報道陣で埋まった会見場に登場した翁長知事は正面中央の定位置に着座し、撤回に至った理由を滔々と読み上げ、記者からの質問を受け付けた。
言葉は明瞭で力強かった。辺野古埋め立て工事を押し進める国の態度を「傍若無人」な振る舞いとして批判した。「傍若無人」にはどういう意図があると思うかと記者から問われると、堰を切ったように言葉が止まらなかった。
地方自治がないがしろにされた国と沖縄県との異常な関係や、埋め立て工事による沖縄の自然環境の破壊、そしてアジアに開かれた沖縄の経済発展の可能性などを次々に列挙し、「いつかまた切り捨てられるような沖縄ではいけない。今やっと沖縄が飛び立とうとして、それは十二分に可能な世の中になってきている。飛び立とうとしている足を引っ張ろうとしているのがあったら、沖縄の政治家としてこれはとても容認できない」と熱弁を振るった。
「この質問にこんなに長く答えていいのかということもあるかもしれないが、思いがないとこの問題は答えられないんですよ」と語り、いつもの翁長節は健在だった。
秋の知事選に向けて、病気療養を続ける翁長知事の去就に注目が集まっていた。県政与党は現職の翁長知事の2期目出馬が前提だという建前を崩していなかったが、治療に専念するため副知事に職務代理を頼らざるを得ないのではないか、いや任期途中の退任もあるのではないかといった声は日増しに強くなっていた。
会見の言動に触れて、私は思い直すところがあった。さすがに2期目の出馬は難しいだろうという見方までは変わらないが、11月の任期満了まで職務を全うするはずだという思いを強くした。職務代理を立てる必要性や任期途中で退任するほどの体調ではないと思わせるくらい、会見場の翁長知事は雄弁だった。
頭を悩ませていた埋め立て承認の撤回を巡る取材にようやく方向性が出たことの解放感もあって、知事の体調問題を前向きに考えられるようになったこともあったのだろう。重病説にさんざん振り回されてきたが、県をはじめとした関係者の説明の通り、翁長知事は順調に快方に向かっているのかもしれないという思いに傾いていた。
しかし、同じ政治部の中村万里子記者はごった返す報道陣の喧噪から少し離れた場所で、全く別の光景を目撃していた。会見場を後にして執務室へと向かう途中の廊下で壁にもたれかかって立ち止まり、きつそうに肩で息をする翁長知事の姿だった。
中村記者から報告を受けても、さっきまで目の前で雄弁に語っていた翁長知事の姿とは、にわかに結びつかなかった。私も格闘しているつもりだったが、翁長知事ははるかに大きなものと闘っていたのだった。
「ペンの出番」
8月8日午後6時43分、翁長知事は死去した。撤回表明の会見から、わずか12日後だった。伏せられていたが、がんは肝臓にも転移していた。現職知事の死去は、県政史上初めてだった。
死去から1カ月になろうとする頃、編集局長はじめ編集幹部らと共に、那覇市大道の翁長氏の自宅を訪ね、仏前に手を合わせた。
妻の樹子(みきこ)さんから聞いた翁長知事の闘病の様子は過酷だった。抗がん剤の副作用に悩まされ、ひどい口内炎で水も摂れないほどだった。日に日に体力が衰え、撤回表明の記者会見を開く前日は、帰宅後に玄関先に座り込んで動けなくなるほどだったという。私に「任期全うは間違いない」と確信させた会見の姿は、まさに死力を振り絞っての大立ち回りだったのだ。
翁長知事や家族が闘っている間、取材のためとはいえ、病院や自宅周辺をうろうろかぎ回っていた自分を名乗り出せず、消え入りたい思いだった。
新聞記者は決して無謬ではない。判断に迷い、尻込みし、訂正を出すこともある。正義感に燃えて突っ走る余り、取材対象のプライバシーとの間で摩擦を生じさせたりもしてしまう。何が正しいのか、何を求められているのか。迷いながらもそれでも前に進むには、読者の側に立ち、読者の声に耳を傾け、読者のためにペンをとると腹をくくるしかない。
樹子さんによると、埋め立て承認を撤回して工事を止めた場合に、県の職員に損害賠償が及ぶかも知れないということを翁長知事は最後まで気に掛けていた。「国が一般職員まで脅すなんて、そんな不条理が本当にあるでしょうか」と樹子さんはつぶやくと、最後に私たちに言葉を掛けた。
「それにも関わらず国が出てくるというなら、その時は、あなたたちペンの出番ですよ」
与那嶺 松一郎(よなみね・しょういちろう) 1977年那覇市生まれ。2000年入社。中部報道、政治部、文化部、経済部などを渡り歩き、19年から経済部長。趣味は映画鑑賞。最近感動したのは娘と見た「ドラえもん」。
沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。