首里城の歴史 権力性とらえる視点を 桃原一彦氏寄稿<首里城再建を考える・主体性回復への道>


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首里城再建などについて率直に語り合った30代の4人。琉球新報デジタルで記事が掲載されている=2020年10月、那覇市

 2020年11月14日、琉球民族独立総合研究学会主催によるシンポジウムにおいて、神奈川大学の後田多敦氏の講演が行われ、1877年に琉球に来航したフランス軍兵士ジュール・ルヴェルトガによって撮影された首里城正殿の写真等史料が紹介された。翌15日には本紙1面トップでも報道され、首里城再建をめぐる歴史的検証と議論が正殿大龍柱の向きを中心に多方面で活発化している。筆者の学問領域は社会学であるため、史料考証と議論そのものに安易に参入することはできない。そこで、本稿では〈私〉という主体と社会との関わりにおいて、「首里城」をめぐる歴史とどのように向き合うべきなのかについて述べておきたいと思う。

 19年10月31日未明、首里城正殿、南殿、北殿が火災によって焼失した。その直後から、県内外の様々な立ち位置と熱量において「首里城」が語られはじめた。筆者も大学生たちと「首里城」について語りあい、ゼミ卒業生を交えた議論も行った。学生や卒業生たちの「首里城」に対する構えや言葉は、冷静なものだった。「首里城には一度も行ったことがない」、「火災の映像をみても、あまりピンとこなかった」。思い起こせば、筆者も1992年に正殿が復元されて以降、「有料エリア」には一度しか足を踏み入れたことがない。首里にルーツすら持たない筆者にとっては、そこは観光客が大挙押し寄せる観光施設の感があり、むしろ縁遠い存在だった。つまり、それは私自身の生きる生活世界に刻まれた「歴史」とは連続性を持たない存在であった。

次世代の感性

 そのような感覚における語られ方は、2020年10月29日に本紙デジタル版に掲載された、30代の沖縄青年たちの語りにも垣間見える(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1215455.html)。琉球・沖縄の歴史や文化の一端を知る上で首里城が果たしてきた役割や、先の再建に尽力した職人たちに敬意を払いつつ、「負の歴史もあるので、いろいろ考えないといけない」、「テーマパーク的に扱われている状態に対する違和感」に言及する。また、人頭税が課せられた宮古島や八重山諸島の立場から複雑な心境が語られる。

 さらに、沖縄戦当時の日本軍第32軍司令部壕跡の公開にも踏み込む。そして、急ピッチに進む再建計画に対する疑問とともに、「もっと時間をかけるべき」、「絶えず努力をして試してという時間が必要」という提言がなされる。

 この記事に見出(みいだ)される次世代の感性と言葉は、決して無視できるものではない。ましてや、われわれのような先行世代が、「正しさ」や「ホンモノらしさ」の確保を憂い、焦り、次世代の一人一人の感性と言葉を性急なアイデンティティー論やナショナリズムに回収してはならない。彼らの感性と言葉は、「権力」のありように対して極めて敏感だ。

繰り返す暴力

 そもそも、未確定な「純粋過去」から一定の事柄を切り取り、それを「歴史」として形にする行為自体がすでに権力性を帯びている。特に、それが拠点的な観光施設となってしまう場合、「見せたい歴史」という欲望の集団表象と連なる危うさを常にはらんでいる。彼らが「首里城喪失」の瞬間から察知したのは、首里・那覇を中心に表象される象徴権力である。

 また、首里城が「琉球・沖縄」をめぐる権力性を帯びているがゆえに、それが日本という国民国家に回収され、書き換えられるような象徴暴力にさらされることになる。今日的にいえば、「国営」である時点で政治性をまとう。そして、そのような暴力は歴史的に繰り返されてきた。

 1879年の琉球併合によって熊本鎮台分遣隊が侵攻駐屯し、それから間もなく日本兵によって大龍柱が折られる。そこは、常時「屈辱」を見せつけられる儀礼執行装置となる。日清戦争(1894~1895年)当時には、のちに「沖縄学の父」と称される伊波普猷ら学生が、「支那の南洋艦隊が沖縄を襲撃する」という流言に感化され、「義勇団」を組織し、(旧熊本鎮台)沖縄分遣中隊の後方支援に勤(いそ)しむ。

 そして、治安維持法が制定された1925年には、首里城正殿は「沖縄神社」となり、象徴暴力としての完成形をむかえる。1945年には軍民一体の地上戦を司令する戦時暴力の中枢を地下に構える。

円環的歴史を回避

 「正しさ」や「ホンモノらしさ」が決着していない〈いま〉だからこそ、私たちは、次々に発表される「決定」の権力性を捉える視点を身につけなければならない。「国営公園」に投じられる予算措置とその時限執行は「待ったなし」を迫ってくるだろう。

 しかし、歴史を形にする際の権力性を相対化するためには、いったん立ち止まり、リズムを中断し、歴史をめぐる表象行為そのものに亀裂を入れてみる必要がある。

 つまり、単線的な物語で歴史を捉えるのではなく、そのような物語を転調させる複数の〈点〉から捉えること。中心的な基軸の周辺で同じことを繰り返すような円環的な歴史を回避する視点と姿勢を持つこと。このように〈私〉が能動的に歴史に向き合うとき、流言に振り回された若き伊波普猷をすくい取り、彼を受け止め、同じ地平に立つことができる。そのときはじめて、〈私〉は歴史と対等な位置に立つことが可能となり、新しい未来を発見することができる。急ぐ必要はないのだ。

桃原 一彦

桃原 一彦​(とうばる・かずひこ​)

 1968年南風原町生まれ。沖縄国際大学総合文化学部。専門は社会学。主な著書は、共著『沖縄、脱植民地への胎動』(未來社)、「沖縄の「不和」を横領する支配の構図―「県外移設論」批判をめぐって」(『解放社会学研究』29号)など。