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変わるべきは「男は外、女は中」 女性政治家を増やすためには…元県議・狩俣信子さん<「女性力」の現実 政治と行政の今>1(後編)


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

written by 吉田健一、大嶺雅俊

(9人に断られた「後継候補に」のお願い 家庭、子育て、中傷…政界進出を阻む「見えない壁」<「女性力」の現実 政治と行政の今①>から続く)

 

那覇市議選に初当選し、支持者と喜び合う狩俣信子氏(前列)。60歳で政治家人生をスタートさせた=2001年7月、那覇市内

 1941年、比較的裕福な家庭の8人姉妹の4番目として那覇市松下町(現・松山)に生まれた、元県議の狩俣信子氏(79)は、周りから「男子の跡継ぎ」を求められる母を通じて男尊女卑の世界を目の当たりにした。そういった社会風潮に反発してか、中学生の時には、当時男子がなるのが当たり前だった学級委員長に名乗りを上げた。頭にはいつも「女子の何が悪いんだ」との思いがあった。

娘がノートに書いた「大嫌い」

 琉球大卒業後、高校の社会科教諭となり、29歳の時に結婚、2人の子どもを授かった。教壇に立つ傍ら、組合活動にも積極的に参加し、52歳の時、高教組の委員長に就任した。女性が高教組の委員長に就いたのは全国初の出来事だった。組合活動にのめり込んだこともあり、長女が幼いころは家にあった大学ノートに「高教組なんて大嫌い」と書かれたこともあった。

 政治家に転身する転機となったのが大田県政下の1996年に女性総合センター「てぃるる」の館長就任だった。館長として、女性の地位向上、男女共同参画社会の実現に向け奮闘した。県政が稲嶺県政に変わったことで、2000年には館長を退任。周りの女性から「政治家になるべきだ」との声に押される形で、退任から4カ月後の同年6月の県議選に初挑戦した。

 政党の支援を受けることはできず落選したが、「家族の全面支援」を受けることはできた。最大の理解者でもある夫には「てぃるるの館長になるときも選挙に出ることを決心したときも事後報告だった」。夫は「『やりたいことは全部やってくれ』と言う人」だ。

 女性議員を増やすことについて「男女が互いに住みやすい社会をつくる。そのためには男は外、女は中という考えを変えていかなければならない」と語った。

八重山初の女性県議となり、支持者と喜び合う辻野ヒロ子氏(中央)。所属した自民県連では総務会長にも就任した=2004年6月、石垣市内

強い風当たりに負けず

 一方、先島初の女性県議となった辻野ヒロ子氏(76)が政治家としての道を歩み出したのは1994年。同年、辻野氏は30年以上勤務した職場を50歳で早期退職した。それを待ち構えるように、PTAや婦人連合会などの社会活動に精力的に取り組んだ辻野氏を周囲が石垣市議選に擁立した。

 結果はトップ当選。同市議会では46年ぶりの女性市議の誕生だった。だが選挙運動中、女性という理由での風当たりは強かった。

 「政治家になったからには、やろう」と、市議会ではごみ処理問題や新石垣空港問題などに注力。「女のくせに」という声はいつのまにか消え、2004年には県議選に当選した。所属した自民県連では総務会長にも就任した。

 議員生活を振り返って、辻野氏自身は女性という属性による不利益を感じたことはあまりないと語る。

 「『女性だから』と思われないよう、言われないように意識していたところはあるかもしれない」

 一方で「自分は家族に恵まれていた」と口にしつつ、「女性がさらに政治に参加するには、夫婦の場合は夫の家庭参加が進まないといけないし、周囲も理解して励ます雰囲気づくりが大事だ」と強調した。


 

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