出会いつなぎ 糧に 原発事故で福島から避難 色鉛筆画講師・伊藤さん<刻む10年 沖縄から、被災地から>3


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
色鉛筆画教室で生徒らと談笑する伊藤路子さん=2月、那覇市久茂地のブックカフェ&ホールゆかるひ

 長机に向かい合って座った生徒たちが、色鉛筆を滑らせ人物像を描いていく。おしゃべりの要素も欠かせない。那覇市久茂地で開催されている色鉛筆画教室のいつもの光景だ。講師の伊藤路子さん(73)は東京電力福島第1原発事故を受け、福島県白河市から那覇市へ避難してきた。

 同世代の生徒らに穏やかな口調でアドバイスしていく。「生徒には2011年に出会った人や5、6年の付き合いになる人もいる。時には遠出する仲のお友達ですよ」。伊藤さんがほほ笑んで紹介すると周りから笑みがこぼれた。

 伊藤さんは元漫画家。引退後は白河市でカフェを家族で営んでいた。福島第1原発事故後の2011年3月26日、放射能汚染から逃れるため、知り合いも、生活のあてもない沖縄に当時23歳の次女と避難した。

 原発事故は家族を離散させた。母は神奈川県の妹宅へ、長女一家は新潟県へ、夫と長男は福島県にとどまった。長男は店を立て直そうとしたが、12年に廃業した。母は避難先で亡くなった。孫に会えない暮らしも10年続く。夫とは考え方の違いもあり、18年に離婚した。長男は仕事を求め、現在三重県で暮らす。次女は原発事故を原因とする、うつ病と診断された。

 福島県での家や日常は奪われたが、避難後には多くの出会いが沖縄で待っていた。その縁がつながり、現在は色鉛筆画教室講師や調理師として働いている。一時は10万円ほどの収入を得られるようになった。しかし、新型コロナウイルスの影響が直撃し、稼ぎは5万円ほどに落ち込んだ。避難生活の10年間で、沖縄県など行政による被災者支援も縮小されたり、打ち切られたりした。

 次女と共に那覇市内で家賃6万円ほどのアパートに暮らす。自身の年金、次女の障害年金で生活費をやりくりしている。

 「この10年で最も変わったことと言えば、私の性格。原発事故前までは、和を乱したくないと人に合わせる性格だった。今は、やりたいことをしよう、自由でいいんだ、そう考えて動けるようになった」

 原発事故の被災者が国と東電に損害賠償などを求めた「生業(なりわい)」訴訟の原告として、沖縄県内外の仲間とつながる。県内避難者や支援者が参加する「つなごう命の会」のメンバーとして被災者支援の要請活動も続けている。

 新たな仲間と出会い、絆を育んだ沖縄に骨をうずめたい。自分が亡くなったら葬式は質素に。墓は不要。離れて暮らす子どもたちには思いを伝え、笑い合って話も済ませた。「残された当事者たちが納得できる形が一番大切だから」。穏やかな口調に覚悟がにじむ。

 人生を翻弄(ほんろう)した原発事故に対する国と東電の責任を追及し、原発をなくしたい。その意思は強く、明確だ。これまでと同様、原発事故の問題や健康への影響について、機会あるごとに沖縄県内でも伝えていくと誓う。

 「私の力は小さいかもしれない。でも、沖縄につながりができた。一人一人の命を大切にできる社会の実現に向け、この出会いを生かしたい」。色鉛筆を優しく走らせた。 (島袋貞治)

    ◇◇   ◇◇

 伊藤路子さんの色鉛筆画教室は毎週金曜午後2時、那覇市久茂地のブックカフェ&ホール「ゆかるひ」で開かれている。問い合わせは、ゆかるひ(電話)098(860)3270。