被災者の喪失感は今も 経験者の語りを今後の糧に 沖縄じゃんがら会代表・桜井野亜さん<つながる・備える―東日本大震災10年>1


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沖縄じゃんがら会が開いた「第2回福の島まつり」で東日本大震災の犠牲者を追悼し、黙とうする参加者ら=2018年3月11日、糸満市潮平の沖縄山城間院長谷寺

 東日本大震災から10年が経過する。被災地から沖縄へ避難した人々の現状や被災者への継続的な支援の課題、今も続く心の傷に加え、沖縄で大規模な震災が発生する危険性や防災面の課題などについて識者や文化人、当事者らに寄稿してもらう。

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 この時期は毎年、沖縄にいる被災者・避難者も「心が落ち着かない」「眠れない」などPTSDの症状を訴える方が多い。そんな時期に起こった先月の震度6強の地震はあの時の恐怖を一瞬でよみがえらせた。「5~6年ほどたてば元の生活に戻るだろう」。当時、私はなんの根拠もなくただ漠然とそう感じていたが、避難者の時間の経過は違っていたのである。

 感情の渦

 震災直後は混乱をしている避難者も多かったが、震災から2年、3年と経過をするにつれ、状況はさらに混沌(こんとん)さを増し、悲しみや怒り、やるせなさなどの感情も渦になり、問題が波のように押し寄せてきたのだ。多発する避難者の悩みに必死で対処するも急場しのぎでしかなく、県に相談をしても解決が見えない中、2014年にはとうとう避難者が自死に至ったという情報が入った。私はこの混迷の中で起きる出来事を変えていかなければならないと強く感じ、2015年4月、地域福祉や専門機関と連携した相談支援体制の構築(支援ネットワーク事業)を開始したのである。

 この頃は、協力者がいない中での子育てに疲弊した母親からのSOSや母子避難という特殊な状況下で起きる家族間の問題も多くなり、子どもたちへの影響も顕在化し始めるなど、円環的因果論による家族問題も多く見受けられた。

 震災から5~6年たっても喪失感は鮮明で、それまで経験を口にできなかった方の語りはまるで昨日のことのようにありありとした感情を呈し、声を震わせ涙を押し殺す姿に胸が締め付けられる思いであった。その中でも津波による喪失体験はすさまじく、一緒に涙を流すことしかできない無力さを感じた。

 さらに原発事故では故郷やコミュニティー、仕事や趣味の喪失、分断による自己肯定感・存在意義の低下なども現れていたが、その輪郭ははっきりとせず、アイデンティティーの喪失として複雑な心理状態を浮かばせ、当事者に自覚がないまま日々の生活にじわじわと影響してく様子が見られたのである。

 支援の課題

 しかし、そのような状況下においても2016年度で国の災害救助法による住宅支援が終了となり、それに伴い次々と支援は縮小。沖縄では大多数である自主避難者はその変化に追いつくことができず、判断に迷い、生活が滞っていく方の存在もあったのだ。自己決定ができないままの時の経過は「仮の人生」を生み、自分らしさをも喪失させたと言えるのかもしれない。

 支援ネットワーク事業を立ち上げた当初「専門機関や窓口があるのになぜ解決しないのか?」と疑問を持ち、その答えを明確にする必要があると感じた。沖縄の方々は優しくフレンドリーで、その温かさに助けられたのは私の子どもたちだけではない。私たち家族がお世話になっているアパートの亡くなった大家さんも徳が高く、息子さんもまた尊敬する人で感謝してもしきれない存在である。なのに「なぜ、支援の真心が循環しないのか?」その要因を解明することで、正しい循環に変えたいと思ったのだ。

 たどり着いた答えは三つあり、一つ目は「過去の経験に基づく体験がないため共感が難しい事」である。原発事故が併発した災害は日本で初めての事象で、現地復興と避難は相反するものであり、放射性物質が関東まで届いていることなど理解は難しい。

 二つ目は「県民性の違い」で、東北は雪が降れば長期間生活が制限されるため、日ごろから事前準備に余念がない。生活様式の違いから常識とされることの違いもあるのだと感じた。

 三つ目は「被災者・避難者というカテゴライズされたイメージ」だ。被災者・避難者となってからの出会いは支援者と受益者の関係であり、「弱者」という印象を持つのも無理はない。それらすべてが震災後の疲弊した当事者の心には受け止めきれず「本当の事を分かってもらえない」という感情となり、信頼関係を作る困難さを生み、支援が滞っていたことが少なからずあったのだと推測する。

 「傾聴」は支援

 個人が大事にするヒト、モノ、コト、歴史、信念を理解することは難しい作業であり、それはその人が語らないかぎり知ることはできない。ゆえに「傾聴」は大事な支援なのだと感じている。現に私にとって、2011年に経験した震災は「人生の文脈の一つ」であり、震災前は広告業の仲間とともに音楽活動をしていたが、避難して数年間は知る人も少なかった。私自身もさまざまな喪失感を引き出しにしまい、それを取り出して痛みを感じながら咀嚼(そしゃく)するまでは、あまり人に話さなかったのである。

 現在、沖縄の各市町村の社会福祉協議会や専門家と連携し、大きな懐に感謝しながら被災者・避難者支援を進めている。これまでも東日本大震災支援協力会議や沖縄県には多大なご支援を頂き、その支援を受けた避難者は皆感謝をしている。しかし、他方で支援対象とならなかった避難者の存在も多数あることを忘れてほしくはない。

 私は「他の誰にも私たちのような思いはしてもらいたくない」という当事者の言葉を何度も耳にした。だからこそ経験者の語りが今後に生かされることを心から願っている。

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 さくらい・のあ 1972年福島県生まれ。2011年東日本大震災及び福島第1原発事故により沖縄県へ避難。震災前は広告制作業&フードスタイリスト。福島避難者のつどい・沖縄じゃんがら会代表、311当事者ネットワークHIRAETH共同代表。現在、福島県生活再建支援拠点(沖縄)相談員を務める。