自宅失い沖縄移住「原発への考え違う、だけど…」 励まし合い、少しずつ<刻む10年 沖縄から、被災地から>8


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東京電力福島第1原発事故後、福島県南相馬市小高区から県内に避難した大橋文之さん=2月25日、八重瀬町

 広さ約330平方メートルの畑に、タマネギ、レタス、ブロッコリーなどが育つ。福島県沿岸部の南相馬市小高区から県内に避難した防水塗装業大橋文之さん(62)が、無農薬にこだわって作った野菜だ。昨年10月、友人から八重瀬町内の畑を借りるようになった。収穫した作物は、ほとんどを友人らに譲る。「この年齢になると、誰かに喜んでもらうのがうれしいんだ」と、日焼けした顔をほころばせた。

 2011年3月11日、大橋さんは東京電力福島第1原発敷地内で防水工事をしていた。立っていられないほどの激しい揺れ。沿岸部を大津波が襲い、第1原発から11キロほどの自宅は流失した。集落は甚大な被害を受け、大橋さんの親族3人も犠牲になった。その後の原発事故で小高区は避難指示を受けた。

 作業着姿のまま逃げ、避難所や友人宅を転々とした。11年5月、友人の誘いを受け、故郷から約2千キロ離れた沖縄へ。ホテル暮らしなどを経て、2年ほど前から糸満市摩文仁に落ち着いた。

 沖縄に来てしばらくは、喪失感で何も手につかなかった。津波で失った大切な人たちや自宅。大手ゼネコンなどで防水業の経験を積んで小高に戻り、自分の会社を立ち上げ、仕事も順調だった。追い打ちを掛けるような原発事故で、近所の人たちは県内外にばらばらに散った。失意の中、支えになったのは沖縄で知り合った人たちの存在だった。励まし合い、少しずつ前へ進んだ。長年なりわいとしてきた防水塗装の仕事も再開。「人のつながりの大切さを本当の意味で実感した」

 16年7月、小高区の避難指示は解除された。しかし、放射線の不安はぬぐえない。長期の避難で集落の土地は荒れ果てた。「戻れない」と諦めの気持ちだ。盆や正月は親族で集まって団らんの時を過ごすのが定番だったが、震災後はできなくなった。近所で戻った人は少なく、それぞれが避難先で生活をしている。

 震災時は高校生だった次女も結婚。孫は2人から7人に増えた。10年を振り返り「沖縄の人たちには本当にお世話になった。ありがとう、これからもよろしくお願いしますという気持ち」と、かみしめるように語る。今後は仕事で恩返しをしたいとの思いが強い。

 復興はどうあるべきか、はっきり言うのは難しい。「年齢や家族構成はそれぞれだし、原発への考え方も違う。だけど、あの日から生活や生き方が大きく変わったのは一緒だ」

 いろんな価値観に触れた10年。原発事故で地域は分断され、困難な状況に置かれた。だからこそ、互いを認め合い、尊重する大切さを知った。「苦労したけど、今は前向きに生きられている」と穏やかな表情を見せた。無理はしなくてもいい。助け合いながら進んでいく。
 (前森智香子)

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