司令官室や作戦室…第32軍壕の中枢部詳細に 公開求める声高まる中、米軍報告書に注目


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32軍の情報室と24師団の作戦室を写したとされる写真(米軍情報報告書より)

 首里城地下に築かれた第32軍司令部壕の保存・公開を求める声が広がる中、米軍が沖縄戦の最中に司令部壕を調査し、取りまとめた「インテリジェンス・モノグラフ(情報報告書)」の存在が注目を集めている。写真と共に司令部壕の規模や坑道の形状、部屋の位置などを詳細に記録している。1990年代の県調査では試掘することができなかった司令官室や作戦室など壕中枢部を記録した報告書だ。壕公開論議の中で資料的価値が高まっており、今後の県調査の中で検証と活用が待たれる。

 32軍壕公開の可否を議論する県の保存・公開検討委員会の委員を務める吉浜忍元沖縄国際大教授は「この資料を初めて見た時、米軍がこれほど綿密に調べ上げていたことに驚いた。32軍壕やほかの陣地壕も含め、図面はほぼ正確だ」と資料の意義を指摘した上で、「今後は壕内部がどう使われたのか検証が必要だ」と話す。

 調査報告書は5部構成で、沖縄戦における日本軍の戦力や陣地の位置などを約400ページにわたって記載している。県公文書館に所蔵されており、沖縄戦研究者の間で活用されてきたが、内容は詳しく紹介されることはなかった。

 日本軍が首里を放棄し、本島南部に撤退した直後の1945年5月29日以降、米軍は32軍壕内に進入し、調査を実施した。報告書は写真や見取り図、捕虜の供述内容などを基に司令部壕内の様子を詳しく記録している。見取り図には、日本軍が撤退する際に爆破した箇所も記されている。

 司令部壕の中枢部にある情報室と24師団の作戦室を撮影した写真は大量の紙が散乱し、コードのようなものが垂れ下がっている様子が分かる。米軍の攻勢で戦力を喪失しながらも、戦略持久戦を継続するため南部撤退に踏み切った32軍司令部の混乱がうかがえる。

 吉浜氏は「さまざまな平面図の原点は米軍情報報告書のものだが、県独自の平面図を作る必要がある」と述べ、米軍資料を踏まえ、県による現場調査の必要性を指摘している。

 32軍司令部壕の保存・公開は97年に大田昌秀県政下で基本計画を策定したが、県政交代で中断した。一昨年の首里城火災後、32軍壕公開の機運が高まり、玉城デニー知事は今年1月、学術分野と技術分野の専門家による新たな検討委員会を設置した。2021年度から32軍壕に関する資料収集事業を始める。 (中村万里子)