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旧若松薬品の孫が仕掛けた「エピローグ」 記憶と時間を次世代へ…<まちぐゎーひと巡り 那覇の市場界隈16>


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美術家・平良亜弥さんの祖父・伊是名興宜さんが創業した若松薬品の外観。近年は亜弥さんがアトリエや展示会場などとして使用してきた=那覇市壺屋

 3月6日、平和通りのアーケードを抜け、住所が牧志から壺屋へ変わる辺りを歩いていると、古い建物の前に人だかりができていた。中に入ってみると「若松薬品エピローグ」という展覧会が開催されていた。

 その建物は、かつて「若松薬品」という卸問屋の倉庫だった。卸問屋を創業した伊是名興宜さんは、1931年、今帰仁生まれ。戦後は那覇の「宇治原本店」で働いたのち、独立。最初は間借りしながら、看板も掲げないままスタートしたが、てんぷら坂へ移転したあと、「伊是名薬房」と看板を出した。

配達先が100軒

 「祖父の店は、医薬品の卸・小売りの店だったみたいです」。そう聞かせてくれたのは、興宜さんの孫・平良亜弥さん(39)だ。「当時の名刺を見ると、『医藥品/家庭藥品/医療器具/衛生材料/其の他/卸・小賣』と書かれていて。店頭で小売りをしながら、薬局に卸す仕事もしていて、最盛期には配達先が100軒ぐらいあったそうです」

 経営が軌道に乗ると、興宜さんは若松通りの近く、那覇市松山に店舗兼自宅を構え、店名を「若松薬品」と改めた。取り扱う量が増えたことから、倉庫も借りることになった。その倉庫が、「若松薬品エピローグ」の会場となった場所である。

 2階からは、のうれんプラザが見える。今のビルに建て替えられる前は「農連市場」という名前の卸市場があり、界隈(かいわい)にはさまざまな業種の卸問屋が軒を連ねていたという。「若松薬品」にも、仲卸業を営む女性が訪れ、県内各地にあるまちやぐゎーに商品を卸していた。

 「最盛期には松山と壺屋に店舗があったそうなんですけど、私の記憶にあるときにはもうそれらは閉じていて、ここが事務所兼倉庫になっていたんです。祖父は口数は少ないんだけど、ちゃめっ気がある人でした。それに、近くのお弁当屋さんのお気に入りの弁当以外は食べなかったらしくて、すごくマイペースな人でもありました」

 この建物が卸問屋の倉庫だった名残を感じさせるのは、2階にある床蓋だ。2階の隅っこには、1階から商品をローラーで移動させる運び口があり、その運び口をふさぐ床蓋の上で興宜さんはよく昼寝をしていた。「お客さんとの日常会話は聞き流すのに、商売に必要な会話は聞き逃さない。そんなエピソードを聞くと、祖父は結構商売人だったんだなと感じますね」と亜弥さんは語る。

旧・若松薬品をアトリエとして使用する際に、平良亜弥さんがよく過ごしたソファ。来客などもこの場所で対応していた
まだ看板を掲げる前、間借りしていた時代の店舗に佇む伊是名興宜さん。撮影年代などは不明で、孫の平良亜弥さんらは当時の様子を知る人の情報を募っている

最後の展覧会

旧・若松薬品の建物をアトリエに活動してきた美術家の平良亜弥さん=那覇市壺屋

 「若松薬品」は、1999年に興宜さんの三女・京子さん夫婦が引き継ぎ、営業を続けてきた。だが、ドラッグストアが増えるにつれ、個人経営の薬局は減り、「若松薬品」が取り扱う商品の量も少なくなってゆく。美術家として活動する亜弥さんは、母校・琉球大学で准教授を務めた上村豊さんに手伝ってもらいながら、使われなくなった倉庫の2階をアトリエとして整え始めた。それが2009年ごろのことだ。

 「小さい時から来てますけど、当時のここでの記憶は薄いんですね」と亜弥さん。「こう話していても、『じいちゃんが働いていた姿って、どんなだっけ?』というのが正直なところなんです。私の記憶には、引退後の祖父の姿の方が鮮明で。でもここは間違いなくじいちゃんが働いてきた場所だし、今の自分の目から見ても面白い建物だったんですよね。だから、2010年に若松薬品の閉店が決まったときも、このまま建物がなくなるのは嫌だと思ったんです。自分の中に濃い記憶があれば、思い出の中で完結させてさよならできたかもしれないけど、記憶が薄いからこそ関わりを持つ時間がほしいと思ったんです」

 亜弥さんと上村さんは建物を借り受け、共同アトリエ「旧・若松薬品」を立ち上げた。祖父が2017年に亡くなった後もこの場所を残し、ときおり展示やイベントを企画・開催してきた。だが、ビルの老朽化でアトリエをクローズすることになり、3月6日と7日の2日間、最後の展覧会「若松薬品エピローグ」を開催した。この建物に流れてきた時間や、そこに詰まっている記憶を誰かに引き継いでもらうことができたらと、「若松薬品」にゆかりのある品々や、これまで制作されてきた作品などを展示した。

風景の様変わり

旧・若松薬品の建物内を会場とした「若松薬品エピローグ」の展示風景=那覇市壺屋

 この10年だけでも、界隈の風景は様変わりした。耐震性の問題があるにせよ、街並みがぴかぴかしたものばかりになることに、亜弥さんは焦燥感をおぼえているという。

 「新しいものも良いんですけど、どこも同じような街並みになっていくことにつまらなさを感じてもいます。今は新しくても、50年たてば懐かしいものになるんだろうけど、それはまた懐かしさが違うと思うんですよね。日本のように50年単位で風景が変わっていくのは、世界的に見るとスパンが短い方だと思うんです。50年って現代だと人の人生よりも短いですよね。この身体はもっと長いスパンのことを考えられるはずだし、もっと昔のものを生かしていくこともできるんじゃないかと思うんです」

 3月28日午後2時には、建物の外観を記憶に留めてもらえるようにと、亜弥さんもメンバーであるうちなーぐち演劇集団「比嘉座」の短いパフォーマンスがビルの前で上演される(予約不要・見物無料)。

 まちぐゎーの風景は常に変わり続けてきた。ただ、風景が変わってしまったとしても、それを記憶しておくことはできる。記憶は深い関わりがあった人だけでなく、ふとその場所を通りかかった人に引き継がれていくことだってあるのだと思う。ぼくもまた、「若松薬品」のことを知らないからこそ、その姿を記憶に残すために28日のパフォーマンスを見に行こうと思っている。

(ライター・橋本倫史)

 はしもと・ともふみ 1982年広島県東広島市生まれ。2007年に「en-taxi」(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動を始める。同年にリトルマガジン「HB」を創刊。19年1月に「ドライブイン探訪」(筑摩書房)、同年5月に「市場界隈」(本の雑誌社)を出版した。


 那覇市の旧牧志公設市場界隈は、昔ながらの「まちぐゎー」の面影をとどめながら、市場の建て替えで生まれ変わりつつある。何よりも魅力は店主の人柄。ライターの橋本倫史さんが、沖縄の戦後史と重ねながら、新旧の店を訪ね歩く。

(2021年3月26日琉球新報掲載)