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タコライス「赤とんぼ」は西表の景色、開南の雑踏と高校生とともに<まちぐゎーひと巡り 那覇の市場界隈17>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
店主の仲村敏子さんが幼い頃に赤とんぼを追いかけた故郷の思い出をモチーフに店名をつけたタコライス専門店「赤とんぼ」=那覇市松尾

 開南のバス停から、緩やかな坂を下る。「サンライズなは」というアーケード街を進んでゆくと、イエローの外壁が印象的な、こぢんまりとしたかわいらしい店が見えてくる。タコスとタコライスの専門店「赤とんぼ」だ。

 店主の仲村敏子さん(77)は1944年生まれ。西表島で育ち、高校進学を機に石垣島に出る。卒業後は沖縄本島に渡り、それからはずっと那覇で過ごしてきた。24歳で結婚し、3人の子宝にも恵まれた。子育てしながら仕事を続け、家計を支えてきた敏子さんには夢があった。それは、「いつか小さな店を持ちたい」というものだった。

 50代を迎え、子育てが一段落した頃に物件を探し始めたところ、知り合いの紹介で今の場所と出合った。わずか2坪の店舗で商売を始めるにあたり、敏子さんが目をつけたのがタコスとタコライスだった。

 「私が店を始めたときはね、那覇でタコライスを出す店はほとんどなかったですよ」。敏子さんはそう振り返る。「その頃はまだ、タコライスは中部の食べ物だったから、那覇の人だとタコライスって知らない人も多くて、『何、タコが入ってるの?』って言われてね。那覇でタコライスを出す店がないんだったら、イチかバチかやってみようって、それでこの店を始めたんです。タコスとタコライスを作るだけなら、そんなにスペースも要らないし、一人でもできるんじゃないかと思ってね」

独自に研究

新鮮な食材と自家製ソースが人気の秘訣となっている「赤とんぼ」のタコライス

 タコライスが誕生したのは、1984年のこと。米軍キャンプ・ハンセンのある金武町で「パーラー千里」を創業した儀保松三さんが、円高のあおりを受けて金銭的に余裕のない米兵たちに満腹になってもらおうと考案したのがタコライスだった。

 お店を始めるにあたり、敏子さんは中部に足を延ばし、タコライスを食べ歩いた。そうして独自に研究を重ね、お店をオープン。店名は迷うことなく「赤とんぼ」に決めた。

 「幼い頃、台風が近いときには、同級生と庭ぼうきを持って赤とんぼを追いかけた思い出があるんですよ。自分が小さい頃は、西表に赤とんぼもいたし、水色のシオカラトンボもいたんですよ。当時の記憶というのは、いまでもまだ残ってます。海がすぐ目の前にあって、学校があって、すぐ後ろに山があって――もう、海と山しかなかったからね。夕日が沈むのもばっちり見えるし、太陽が上がってくるのもはっきりわかる。あの風景というのが、自分の故郷だなと今でも思うんです。離れてみて初めてわかりますよ。当時の思い出が、今も焼きついてますね」

高校生が手伝い

「愛情たっぷりの手作りソース」と店頭で紹介し、並べられたタコライス

 「赤とんぼ」とのれんを掲げ、お店をオープンしてみると、小さな店舗とはいえ一人で切り盛りするのは大変だった。そんな敏子さんの姿を見かねて手伝ってくれたのが、近所の高校生たちだった。

 「オープンしたばかりの頃は、何をどうしていいか、自分でもわからなかったんですよ。あの当時はまだ、私一人でやっていたから、仕事が手に負えなくて。そのときに、今でも忘れられない、農林高校の生徒たちが手伝ってくれたんです。たまねぎやにんにくの皮をむいたりしてね。おばさん、おばさんって毎日学校帰りに来てくれた。あの子たちが私のお店の第1期生です」

 お客さんとしてお店を支えてくれたのもまた、高校生たちだった。那覇ではまだタコライスが物珍しく、大人のお客さんは少なかったけれど、高校生たちがお昼休みや学校帰りに立ち寄ってくれた。

 「昔はもう、手に負えないような子どもたちもいっぱいいましたよ」と敏子さんは笑う。「タバコを吸う子や、唾をぺっぺと出す子もいたけど、そういう子にはティッシュペーパーの箱を投げて、きれいに掃除させてました。この通りはゲームセンターもあったから、じんせびりっていうの、お金をせびるこどももいたんです。うちで買い物した子どもにお釣りを渡すと、その子の後を追って、肩を組んですーじぐゎーに連れて行く悪い子たちもいてね。そういうのが見えると、私も後を追って、『その子はおばちゃんのいとこだけど、なんか用事あるの?』って追い払ったりしてましたよ」

 ただ、一見すると手に負えない子どもたちも、「家庭環境に問題があるだけで、本当は素直な子だったんですよ」と敏子さんは振り返る。「私自身、親の援助は受けないで、自分で働いて学校を出てきたから、そういう子たちの気持ちが痛いほどわかるんです」

思い出の場所

「子どもたちが気軽に立ち寄れる場所を残したい」と「赤とんぼ」の営業を続けてきた仲村敏子さん

 当時に比べると、サンライズなはの風景もずいぶん穏やかになった。かつては開南のバス停を起点にして人が行き交っていたけれど、2003年にゆいレールが開通すると、人通りも少なくなった。それでも敏子さんは、「子どもたちが気軽に立ち寄れる場所を残したい」と、営業を続けてきた。広告を出したことは一度もないが、口コミで評判が広がり、わざわざここを目指して足を運ぶお客さんもいる。人気の秘訣(ひけつ)は、やはり味だ。とにかく新鮮な食材にこだわり、ソースも自家製だ。

 当初は一人で切り盛りしていたが、今では長男と長女もお店を手伝うようになった。「赤とんぼ」の味は子どもたちに引き継がれているけれど、「引退するとボケちゃうから、今でも店に来てるんです」と敏子さんは笑う。「ここに立っていると、ちょっとしたことでお客さんとのコミュニケーションが深まるし、面白いですよ。それが楽しくて、だからやめられないんです」

 「赤とんぼ」にはリピーターも多く、高校生の頃に通い始めて、大人になった今でも通い続けているお客さんもいる。就職で内地に渡っても、里帰りのたびに立ち寄ってくれるお客さんもいるそうだ。敏子さんが郷里を思って「赤とんぼ」と名づけた小さなお店は、今では誰かの思い出の場所になっている。

「お客様と共によりそって行きたい!」などと手書きで記した利用客へのメッセージ
トマトや野菜などを丁寧に盛り付け、タコライスを作る仲村敏子さん

(ライター・橋本倫史)

 はしもと・ともふみ 1982年広島県東広島市生まれ。2007年に「en-taxi」(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動を始める。同年にリトルマガジン「HB」を創刊。19年1月に「ドライブイン探訪」(筑摩書房)、同年5月に「市場界隈」(本の雑誌社)を出版した。


 那覇市の旧牧志公設市場界隈は、昔ながらの「まちぐゎー」の面影をとどめながら、市場の建て替えで生まれ変わりつつある。何よりも魅力は店主の人柄。ライターの橋本倫史さんが、沖縄の戦後史と重ねながら、新旧の店を訪ね歩く。

(2021年4月23日琉球新報掲載)