written by 松永 勝利
4年前の春、不思議な感覚に襲われる経験をした。突然、啓示を受けた衝撃といえばいいだろうか。それは今から22年前に取り組んだ取材に関連していた。
2017年5月、私は高校3年の次女と糸満市摩文仁の沖縄県平和祈念資料館を訪れていた。次女は夏から1年近く、フィンランドに留学することになっていた。出発前、沖縄戦のことを学ぼうと思ったようだ。「お父さん、平和祈念資料館に連れて行って」。そう頼まれ、2人で館内の展示を見て回った。
次女が生まれた1999年の秋、私は社会部の記者として、この資料館を巡っての「事件」について取材を重ねていた。分娩室で出産に立ち合い、病室で生まれたばかりの彼女を抱き上げた時も、頭の片隅には「事件」のことがまとわりついたまま離れなかった。
県庁に「不穏な動き」
その「事件」とは、1978年から沖縄戦の事実を「住民の視点」で伝えてきた資料館が、新しい資料館に移行する段階で、県民の意向とは無関係に県庁内部で展示内容を大幅に変更する作業が進んでいたことを指す。
秘密裏で行われた行政当局の展示変更作業は、新資料館の開館を翌年4月に控えていた1999年夏に大詰めを迎えていた。沖縄戦で住民虐殺をした日本軍の展示などについて「残虐性が強調され過ぎない」(県当局指示案)表現に変えるよう展示業者に指示が出されるなど「住民の視点」を削ぎ落とす形で手が入れられていた。
しかも3年かけて展示案を練り上げてきた沖縄戦体験者、沖縄戦研究者ら学識経験者で構成する新資料館の監修委員会には何の断りもなく進められていた。なぜこうした動きが起きたのか。それは前年11月の県知事選挙で現職が敗れ、革新県政から保守県政へと移行したことに起因していた。
私たちが県庁内部で不穏な動きがあることを知ったのは、この年の慰霊の日を迎えた後だった。沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされる6月23日の慰霊の日、糸満市摩文仁の平和祈念公園では、戦後54年の「沖縄全戦没者追悼式典」が開催された。知事は式辞でこう述べた。
「戦没者の犠牲の重さを深く受け止め、あの悲惨な戦争から学んだ教訓を風化させることなく、次世代に正しく伝えるとともに、世界の恒久平和確立に貢献する」
「資料館の展示内容について、県庁の中でおかしなことが起きている。取材した方がいい」。知り合いから、こう耳打ちされたのが慰霊の日の数日後だった。私たちが関係者に取材を始めると、次々と符合する事実が明らかになった。
ある関係者が県平和推進課の職員と5月に会合で同席した際、展示検討作業の進行状況を尋ねると「大変なことになっている。これ以上は私に聞かないでほしい」と言っていた。監修委員会で展示概要が了承された3月17日の6日後、県文化国際局の幹部が知事応接室で、知事ら県三役に展示概要を説明した。その際、知事らは監修委員会が了承した展示概要に難色を示したという。
日本兵から消えた銃
私たちは取材を加速して進めた。展示概要説明書には「ガマ(壕)での惨劇」と題する展示があった。沖縄戦で実際に起きた避難壕での住民虐殺や壕追い出しの事実を踏まえ、ガマの中に避難した住民に向かって日本兵が銃を突き付けている場面をほぼ原寸大で模型として再現する展示が組み込まれていた。知事はこの展示に難色を示していた。
県庁内の展示変更作業で、模型の日本兵から銃が取り除かれ、手ぶらで立っている姿に変えられていた。住民に銃を向けて壕から追い出そうとしていた日本兵は、丸腰のまま住民を見守っている印象に変わっていた。日本軍は米軍の攻勢で壕から退散する際、置き去りにする負傷兵の口を封じるため、コンデンスミルクに青酸カリを混ぜて飲ませて毒殺した。壕の模型には青酸カリ入りのミルクの容器を持った衛生兵の姿も削除されていた。
さまざまな事実を突き止め、県平和推進課に裏付け取材をすることにした。担当者は展示を変更した内容について問うと「何とも言えない」と言及を避けた。模型で日本兵から銃を取り外し、毒殺の衛生兵を削除した理由を尋ねると「こちらとしては特に理由はない。その辺はちょっと答えられない。私の権限を越えている。何とも言えない」と困ったような表情を浮かべながら話していた。
展示変更作業が進んでいることは間違いなかった。慰霊の日の追悼式典で知事が述べた「あの悲惨な戦争から学んだ教訓を風化させることなく、次世代に正しく伝える」との式辞に背く行為が県庁で進んでいた。
私たちは8月11日の朝刊トップで記事を掲載した。見出しは「新しい平和祈念資料館 ガマでの惨劇の模型 日本兵消える 自決強要の兵士 住民に向いた銃 一部内容を無断変更 監修委が疑問の声」だった。
他紙も追及「聞きたい話は他にない」
この報道に端を発して、県内のほかの新聞、放送局も取材を始めた。県内報道機関全体によるキャンペーン報道へと発展した。報道で実態が次々と明らかになるにつれ、県の姿勢を強く批判する県民世論は急速に広がりを見せた。県政を揺るがす大きな事件へと発展していくことになる。
毎週月曜日に開かれていた知事の定例記者会見は通常、政治部の記者が中心に参加していた。社会部の私は一度も参加したことがなかった。しかし資料館の展示変更問題が明らかになった後は毎週、県庁に出向いて会見で知事に質問をぶつけ続けることになった。
普段は普天間移設など米軍基地問題の質疑が中心だった会見は、琉球新報が最初の記事を掲載した後、2カ月以上にわたって資料館問題の質疑一色になった。私が質問しようと真っ先に手を挙げると、会見を仕切る広報監は私以外に誰も手を挙げていなかったにもかかわらず「松永さん、最初はほかの県政についての質問を受けたいと思います。どなたかいらっしゃいますか」と私の質問を遮ろうとした。すると毎日新聞の野沢俊司那覇支局長が「俺たちは資料館問題以外に聞きたい話なんかない。松永君、質問して構わない」と援護してくれた。
知事は資料館問題の質問に苛立ちを募らせていた。私は何度も同じ質問を繰り返したことがある。それは知事が正面から答えようとしなかったからだ。その質問は「日本軍の残虐性が強調されすぎないようにと、県から展示業者に指示されていたことについて、知事ご自身はどう思われますか」というものだった。
知事は硬い表情を浮かべながら、一人掛けソファのひじ掛けに両腕を何度も振り下ろしながら「ですから何度も申し上げておりますが…」と声を荒らげた。しかし自身の気持ちは最後まで言うことはなかった。
「苦難の歴史」広がる怒り
資料館問題は朝刊、夕刊と連日にわたって報道が繰り返された。取材先からタクシーに乗り込んで「泉崎の琉球新報までお願いします」と言うと、運転手から「君は新報の記者か」と問われることがあった。「そうです」と答えると「資料館の記事をいつも読んでいる。県庁に負けないで、頑張れよ」。そのように励まされることは一度ではなかった。編集局にも激励の電話が鳴り続けた。
それは私たちの読者に共通する原体験があったからだと思う。沖縄戦で肉親を失い、自らも心身ともに深い傷を負いながら戦後を生き抜いてきた世代をはじめ、戦争の記憶を受け継いだ戦後世代にいたるまで、沖縄の人々にとって決して忘れることのできない苦難の歴史として刻まれていた。
県庁による展示変更作業は、こうした沖縄の人々の深層心理に土足で踏み込むような行為だった。このため沖縄の多くの人々の逆鱗に触れた。報道によって噴き出した県民の怒りを前に、県は展示変更のたくらみそのものを引っ込めざるを得なかった。そして新資料館は、「住民の視点」を継承した監修委員会の当初案に展示を戻し、翌2000年春に開館した。
娘と見た「この日のために…」
その資料館を4年前の5月、私が「事件」と向き合って取材に取り組んでいた時に生まれた次女と初めて訪れていた。娘は一つ一つの展示を丁寧に見て回っていた。最も関心を示したのが住民証言を展示した部屋だった。
この場所こそ住民視点による展示の根幹部分だ。娘はこの部屋に最も長くとどまった。体験者の証言が書かれた資料をめくり続け、自分が想像もできない体験をむさぼるように読み進めていた。戦争体験者の言霊を戦争を知らない娘が体に染み込ませているようにも思えた。
その光景を私は後ろの壁沿いの長いすに座って眺めていた。その時、コラムの冒頭に書いたように、啓示を受けたような不思議な感覚に襲われた。私は資料館をめぐる「事件」について取材をしていた当時の自身の気持ちを思い起こしていた。
あの時、執拗に事実を突き止めながら、さらに先へと取材の歩を進めることができた取材行動の潜在的な原動力は、もしかするとあの時に生まれた娘が将来、この住民証言の展示にたどり着けることを守り抜くための父親としての闘いだったからではないかと。
証言集を読んでいる娘の背中を見つめながら、私は心の中でつぶやいていた。
「そうか。この日を迎えるために、あの時の取材があったんだ」
展示室を出ると、大きなガラス窓の向こうには摩文仁の海と空が広がっていた。海は青く澄んで美しく輝きを放っていた。娘はフィンランドに留学中、沖縄戦のことや沖縄に今も過重に集中する米軍基地の存在について、フィンランド語で新聞を作って現地の同級生に知らせていた。今は小学校の教諭になるため、大阪の大学で学んでいる。
編集局では今も、沖縄戦と向き合いながら取材活動に取り組む多くの記者がいる。それは「住民の視点」による報道だ。その方針はこれからも決して変わることはない。
松永 勝利(まつなが・かつとし) 1965年東京生まれ。社会部長、政治部長、編集局次長などを経て読者事業局特任局長。主な取材は「検証・老人デイケアキャンペーン」(新聞協会賞)、「県平和祈念資料館展示改ざん問題」(日本ジャーナリスト会議JCJ賞)。趣味はアナログレコードの収集と鑑賞。定年後にレコードをかける珈琲店主になるのが夢。新聞記者は入店お断りにする予定。
沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。