精神科医も病床もゼロ…容認された「私宅監置」 本土との医療格差<求めたものは>7


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 瀬長亀次郎さんに関する資料を展示する「不屈館」(那覇市若狭)には、1965年から那覇市議を務めた妻フミさんの手帳がある。市民の相談が丁寧に記録され、当時の暮らしぶりが浮かび上がる。生活苦や道路建設に伴う立ち退きなどに混じって目立つのは、心を病んだ家族の相談だ。「大声を出したり放浪したりする家族を入院させたい」「医療費のため明日の生活にも困っている」

 県精神保健福祉協会創立55周年記念誌によると、戦前から沖縄と日本本土の医療格差は大きく、沖縄の医師数は人口比で4分の1以下。特に精神科の医師はゼロで病床もなかった。沖縄の精神医療は米軍の野戦病院から始まったが、米軍は軍事上の安全保持を第一に、結核や性病の予防に力を入れ、住民の精神衛生は後回しにされた。

入院させるため、野外の小屋で監置生活をさせられていた精神障がい者を迎える琉球政府の職員ら=1966年2月17日、本島南部(同18日付の琉球新報紙面より)

 日本では50年に精神衛生法が制定され、精神を病む人は「監置」ではなく「医療と保護」の対象とされたが、日本から切り離された沖縄は適用外だった。医療資源もなく家族も生きるのに精いっぱいの中、病状が悪化した精神障がい者を小屋などに閉じ込める私宅監置が各地で起きた。10年後の60年、沖縄独自の精神衛生法ができ、入院が推進されたが、予算も医療施設も圧倒的に足りず、私宅監置は容認された。

 入院に本人の同意は必ずしも必要ない。68年に琉球政府に就職した仲本政幸さん(77)は、家族の訴えを受けて患者を自宅で「収容」した時の様子が今も頭にこびりついている。柱にしがみついて嫌がる人の指を1本ずつはがし、腕力に任せて車に乗せた。

 「精神障がい者は『何をするか分からない人』としか思っていなかった。家族からは『手に負えない』と言われ、新聞も『危険だ、捕まえろ』と書いた。何も疑問に思わなかった」

 その後、保健所職員や保健師の勉強会で学ぶようになって初めて患者の人権に気がついたという。「米軍にうしぇーられて(ばかにされて)なるかと自分たちの人権は意識していたのに、恥ずかしい話だよ」

(左)仲本政幸さん (右)中山勲さん

 精神医療の分野でも「本土並み」が切望された復帰から半世紀を目前に、県内には全国平均を上回る精神科病床があり、精神科の救急システムなどは全国に先駆ける。県精神保健福祉協会の会長も務めた中山勲医師(82)は「全国に遜色ない水準になった」とかみしめる。同時に精神科医療の方向性は、かつての病院収容から、患者は地域で暮らし、地域が支援するように変わった。「病気になった人の悲しみを想像して共感し、受け入れられるよう学ぶことが大切だ」。中山さんは、制度や設備の先を見据えた。

(黒田華)