日の丸 幼き日の憧れ 背を向け 若夏国体、押しつけに抵抗<求めたものは>8


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 沖縄の日本復帰から間もなく1年となる1973年5月3日、教員だった下地輝明さん(73)は、復帰記念沖縄特別国民体育大会(若夏国体)の陸上選手として開会式場の奥武山陸上競技場にいた。入場行進が終わって整列すると、会場後方の日の丸に向かって脱帽するよう促すアナウンスが流れたが、下地さんは振り向かず、日の丸に背を向けた。「国旗は押しつけられるものではない」という思いを行動で表した。

 下地さんは宮古島出身の父と新潟県出身の母の間に生まれた。幼い頃、母から聞いた四季折々の「祖国日本」の情景。「春に咲く桜、冬に降る雪をいつか見たい」。「日本」に対する憧れは強かった。

 学校ではしまくとぅばが禁じられ、使った子どもは罰として「方言札」を下げられた。教師から「やがて沖縄は日本になる。そのときに方言を使っていたら、恥をかくのはお前たちだ」と言われて育った。

1973年5月3日に行われた若夏国体の開会式

 実家では祝日に日の丸を掲げていた。復帰運動に日の丸が使われていたものの、当時の沖縄は貧しく、日の丸を買える世帯は少なかった。「日の丸は(兵隊だった)祖父の持ち物だったかもしれない。ほかの家にはない日の丸を掲げられるのは、誇らしかった」

 「由美子ちゃん事件」や「国場君事件」の被害者は世代が近く、人ごととは思えなかった。日の丸は「日本」への憧れと同時に、米軍への抵抗のシンボルだった。

 ところが、65年4月、国費留学制度を利用して進学した福島大学で「日の丸は国旗ではない」と聞かされた。法的根拠がないというのが理由だった。「今まで沖縄で掲げてきたものは、いったい何だったのか」と混乱した。

下地輝明さん

 学生運動が盛んだった当時、福島大でもキャンパス統合を巡る論争があった。学長は文部省(当時)の影響力が強まる統合を推進し、自治を重んじる教授会や学生と対立した。論争を通し、民主主義の重要さを肌で感じた。

 国体護持のため戦争で捨て石となった沖縄は、戦後、日本から切り離された。復帰後も広大な米軍基地が残り「本土並み」は実現しなかった。沖縄戦や戦後の扱いを学ぶと、民主主義が軽視された歴史が浮かんだ。大学卒業後、教員となった下地さんにとって、日の丸は教育への国家介入の象徴に映った。

 掲揚することに誇りを感じていた日の丸と、若夏国体で背を向けた日の丸。考え方が180度変遷したように映るが、下地さんは「一貫している」と言葉に力を込める。「国家権力から民主主義を守りたいという気持ちは、復帰前も後も変わっていない」 

(稲福政俊)