学校行けず働いた少年期…戦争孤児となった島袋吉雄さん


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ

糸満いとまん島袋しまぶくろ吉雄よしおさん(77)は、沖縄おきなわせん両親りょうしんいもうとうしないました。1945ねんがつ1日ついたちべいぐん沖縄おきなわ本島ほんとう中部ちゅうぶ上陸じょうりくし、にちべいりょうぐんによるはげしい地上ちじょうせんはじまっていました。6がつべいぐん高嶺たかみねそんげん糸満いとまん)までめてきました。高嶺たかみねそん真栄里まえざとんでいた島袋しまぶくろさん一家いっか安全あんぜん場所ばしょもとめてそとをさまよいます。真栄里まえざと海岸かいがんちかいところでべいぐんくわし攻撃こうげきされました。ははちちいもうといのちうばわれました。ははのおなかにはあかちゃんもいました。島袋しまぶくろさんと祖父母そふぼはぎりぎりのところでびました。当時とうじさい戦闘せんとう記憶きおくはありません。

戦後73年がたち、周りの風景は変わりましたが、ゆうなの木は同じ場所にたたずんでいます。両親が命を奪われた場所で幼少時代の体験を語る島袋吉雄さん=2018年5月17日、糸満市真栄里

「おとうさん、おかあさん、(いもうとの)はつはこのしたくなったんだよ」。物心ものごころがついたころ、真栄里まえざとぐちちかくにたつつゆうなのゆびさし、祖母そぼかせてくれました。まわりにはおおくの孤児こじがいたので「自分じぶんだけではない」。つらい気持きもちをめました。

戦後せんご島袋しまぶくろさんがそだてられたのは真栄里まえざとにある伯父おじ家庭かていです。一族いちぞくにははたけがなく食料しょくりょう十分じゅうぶんにありませんでした。島袋しまぶくろさんは1947ねん高嶺たかみね小学校しょうがっこう入学にゅうがく。5年生ねんせいになると伯父おじすすめで小禄おろくそん家庭かていみではたらくことになりました。おも豚舎とんしゃ掃除そうじをしました。10カ月かげつ真栄里まえざともどり、また学校がっこうかよいます。高嶺たかみねそん護岸ごがん工事こうじさかんで、島袋しまぶくろさんもいし仕事しごとをしました。うみるとははおもしました。潮風しおかぜかれるといつもとちが感覚かんかくおそわれました。「おっかー」「おっかー」。こころなかなんさけびました。

島袋吉雄さんが戦後、母方の叔父から譲り受けた両親の写真。両親は20代半ばで戦争の犠牲になりました。母親のキヨさん(左)は裕福な家庭の育ちで、ほおのふっくらとした女性でした。父親の嘉太郎さんは兵隊として中国へ送られましたが生き残ってふるさとに帰り真栄里の区長を任されました。誠実な人柄で人望があったそうです

中学校ちゅうがっこう進学しんがくしてもなく、伯父おじから「北中城きたなかぐすくってみないか」とこえけられすう年間ねんかん土木どぼく建築けんちく会社がいしゃ奉公ほうこうはいり、べいぐん基地きちない住宅じゅうたくにわ掃除そうじ草刈くさかりをしました。学校がっこうけたりけなかったり。「せんせいはなしまったからないから気持きもちもちぢんでね。なみだてきた」。学業がくぎょうがとぎれとぎれになり、自分じぶんおとっているような気持きもちになりました。

中学ちゅうがく卒業そつぎょう機会きかいのがし、15さいから普天満宮ふてんまぐうちかくの岩場いわば採掘さいくつ仕事しごとをしました。10だい後半こうはんから那覇なは市内しない建築けんちく会社がいしゃ大工だいく見習みならいとしてはいり、トタンや木造もくぞう住宅じゅうたく建築けんちく経験けいけん。20だい個人こじん仕事しごとけました。当時とうじ住宅じゅうたく建設けんせつできる会社かいしゃすくなく依頼いらいはひっきりなし。「5~6にんから同時どうじ依頼いらいがくることもあって。いそがしかった」

学業がくぎょうはあきらめざるをませんでしたが、はたらいて技術ぎじゅつ役立やくだちました。20だい後半こうはんの68ねん土木どぼく建築けんちく会社がいしゃ設立せつりつ。いちはや工事こうじ現場げんば建設けんせつ機械きかいれました。結婚けっこんし、どもは2なんじょさずかりました。

さまざまな苦労くろうもありました。はたらはしつづけた人生じんせいでした。中高年ちゅうこうねんになって仕事しごとからはなれ、さきをどうきるかかんがえるようになりました。「戦争せんそうがなければ、おやがいたら…」。やるせない気持きもちはえません。それでも「しあわせな経験けいけんもたくさんした」といます。どもの存在そんざいです。「みんな健康けんこうにしているからしあわせですよ」。やわらかい表情ひょうじょうせました。

島袋しまぶくろさんはいま夜間やかん中学校ちゅうがっこう生徒せいとです。「もういちまなびたい」と4がつ那覇なは珊瑚さんごしゃスコーレに入学にゅうがくしました。「歴史れきし知識ちしきやしたい。卒業そつぎょうしたら神社じんじゃつとめられたら」。まなびのそのさき希望きぼうをつないでいます。

 

 ぶん高江洲たかえす洋子ようこ  写真しゃしん又吉またよし康秀やすひで

2018ねんがつ17にち掲載けいさい

まなびたいとおもったのは・・・

長年ながねんはたらいた経験けいけんから仕事しごと必要ひつようきはこなしてきたという島袋しまぶくろさん。学校がっこうまな機会きかいのがしたがゆえにが経験けいけんもしました。

土木どぼく建築けんちく会社がいしゃいとなんでいたころ、くに発注はっちゅうした公共こうきょう工事こうじ入札にゅうさつ必要ひつよう書類しょるいけず、親戚しんせき代筆だいひつたのんだことがありました。けている漢字かんじがあり、役所やくしょ職員しょくいんから「なおしてください」とわれました。しかし、島袋しまぶくろさんはその漢字かんじくことができず、入札にゅうさつをあきらめました。

まちちゅう看板かんばんなかにもめない漢字かんじがあります。また、英語えいご文字もじはいった看板かんばんはほとんどからないといます。もりもった無力むりょくかんくやしさが、もう一度いちどまなびたいとねが原動力げんどうりょくになっています。

 

 島袋しまぶくろ吉雄よしおさんがかよっていた高嶺たかみね小学校しょうがっこうは、沖縄おきなわせん校舎こうしゃがすべて破壊はかいされました。運動うんどうじょういたところかんほう爆弾ばくだんによるおおきなあなひらいていました。父母ふぼ児童じどう協力きょうりょくしてもらい土地とちととのえ、校舎こうしゃづくりがおこなわれました。

かやぶき屋根やね校舎こうしゃ教室きょうしつ不足ふそくしていました。授業じゅぎょうそと校舎こうしゃなかとでわりながらけていました。島袋しまぶくろさんは「がじゅまるのしたいしすわり、先生せんせいはなしいていた」と当時とうじ様子ようすはなしています。