糸満市に住む島袋吉雄さん(77)は、沖縄戦で両親と妹を失いました。1945年4月1日、米軍が沖縄本島中部に上陸し、日米両軍による激しい地上戦が始まっていました。6月、米軍は高嶺村(現糸満市)まで攻めてきました。高嶺村真栄里に住んでいた島袋さん一家は安全な場所を求めて外をさまよいます。真栄里の海岸に近いところで米軍と出くわし攻撃されました。母と父、妹が命を奪われました。母のおなかには赤ちゃんもいました。島袋さんと祖父母はぎりぎりのところで生き延びました。当時4歳、戦闘の記憶はありません。
「お父さん、お母さん、(妹の)初はこの木の下で亡くなったんだよ」。物心がついたころ、真栄里入り口近くに立つゆうなの木を指さし、祖母が聞かせてくれました。周りには多くの孤児がいたので「自分だけではない」。つらい気持ちを押し込めました。
戦後、島袋さんが育てられたのは真栄里にある伯父の家庭です。一族には畑がなく食料も十分にありませんでした。島袋さんは1947年、高嶺小学校に入学。5年生になると伯父の勧めで小禄村の家庭に住み込みで働くことになりました。主に豚舎の掃除をしました。10カ月後、真栄里に戻り、また学校へ通います。高嶺村は護岸工事が盛んで、島袋さんも石を積む仕事をしました。海を見ると母を思い出しました。潮風に吹かれるといつもと違う感覚に襲われました。「おっかー」「おっかー」。心の中で何度も叫びました。
中学校に進学して間もなく、伯父から「北中城へ行ってみないか」と声を掛けられ数年間、土木建築会社へ奉公に入り、米軍基地内で住宅の庭掃除や草刈りをしました。学校は行けたり行けなかったり。「先生の話が全く分からないから気持ちも縮んでね。涙が出てきた」。学業がとぎれとぎれになり、自分が劣っているような気持ちになりました。
中学卒業の機会を逃し、15歳から普天満宮の近くの岩場で採掘の仕事をしました。10代後半から那覇市内の建築会社に大工見習いとして入り、トタンや木造住宅建築を経験。20代は個人で仕事を引き受けました。当時、住宅を建設できる会社は少なく依頼はひっきりなし。「5~6人から同時に依頼がくることもあって。忙しかった」
学業はあきらめざるを得ませんでしたが、働いて得た技術は役立ちました。20代後半の68年に土木建築会社を設立。いち早く工事現場に建設機械を入れました。結婚し、子どもは2男3女を授かりました。
さまざまな苦労もありました。働き走り続けた人生でした。中高年になって仕事から離れ、先をどう生きるか考えるようになりました。「戦争がなければ、親がいたら…」。やるせない気持ちは消えません。それでも「幸せな経験もたくさんした」と言います。子どもの存在です。「みんな健康にしているから幸せですよ」。柔らかい表情を見せました。
島袋さんは今、夜間中学校の生徒です。「もう一度、学びたい」と4月、那覇市の珊瑚舎スコーレに入学しました。「歴史の知識を増やしたい。卒業したら神社に勤められたら」。学びのその先へ希望をつないでいます。
文・高江洲洋子 写真・又吉康秀
2018年6月17日掲載
長年働いた経験から仕事に必要な読み書きはこなしてきたという島袋さん。学校で学ぶ機会を逃したが故に苦い経験もしました。
土木建築会社を営んでいたころ、国が発注した公共工事の入札に必要な書類が書けず、親戚に代筆を頼んだことがありました。抜けている漢字があり、役所の職員から「書き直して下さい」と言われました。しかし、島袋さんはその漢字を書くことができず、泣く泣く入札をあきらめました。
街中の看板の中にも読めない漢字があります。また、英語の文字の入った看板はほとんど分からないと言います。積もり積もった無力感や悔しさが、もう一度学びたいと願う原動力になっています。
かやぶき屋根の校舎で教室が不足していました。授業は外と校舎の中とで入れ替わりながら受けていました。島袋さんは「がじゅまるの木の下の石に座り、先生の話を聞いていた」と当時の様子を話しています。