私は11歳で沖縄戦を体験しました。1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸すると、南風原村(現南風原町)照屋に住んでいた私たち家族と親戚9人は、父の友人がいる玉城村(現南城市)親慶原に向かいました。到着後は、近くの自然洞窟で約2週間を過ごしました。
その後、具志頭村(現八重瀬町)を経て摩文仁へ向かいました。途中、姉が倒れてしまい、両親が介抱している最中に摩文仁の丘から機関銃の弾が飛んできました。私たちは反射的に近くのアダンの茂みに逃げ込みました。姉をかばう余裕はありませんでした。姉を埋葬した両親にせき立てられるようにして摩文仁の集落へと向かいました。身内が亡くなっても涙を流す余裕などありませんでした。
摩文仁では猛烈な迫撃砲に襲われました。「これでおしまいだ」と観念したほどでしたが、奇跡的に全員傷一つ負いませんでした。
6月半ばを過ぎたころ、家族の食料は約2合くらいの米と少量のみそのみ。餓死寸前でした。海岸近くでは船から投降を呼び掛ける放送も聞こえました。捕虜になろうと家族で壕を出ようとすると、日本兵が「沖縄人はみんなスパイだ。出て行く時は、後ろから手りゅう弾で殺してやるから、覚えていろ」とすごい形相で言いました。
捕虜になるのは許されないことだと戦陣訓で教え込まれていた日本兵たちは、その教えを、私たち沖縄の人々にも強要していました。戦陣訓の存在が戦争をさらに地獄にしたのです。
その後、私たち家族は具志頭村で米軍に捕らわれ、ほかの民間人と佐敷町(現南城市)の馬天港から久志村(現名護市)の大浦崎へ移動しました。そこで母が栄養失調になりマラリアという病気にかかりました。父は病気がうつることを心配し、私たちを石川(現うるま市石川)に避難させました。11月がつ頃、母が死んだことを聞きました。私は泣く気力もありませんでした。
地獄のような沖縄戦をさらに地獄にしたのは、捕虜となることを許さない戦陣訓が影響した教育や思想でした。私たちを脅した日本兵の表情や声色を、今でも忘れることができません。
(2019年3月13日付「未来に伝える沖縄戦」より要約)
戦陣訓
日本陸軍が「軍人の規範」として日米開戦の年の1941年に通知した教えです。「生きて虜囚の辱めを受けず」と捕虜になることを禁じた文言が、軍人たちの自死や一般住民の「集団自決」(強制集団死)につながったと考えられています。