生きること許さない恐怖 南風原村出身の大城勇一さん(85)


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沖縄戦の体験について話す大城勇一さん=2019年2月、宜野湾市

 わたしは11さい沖縄おきなわせん体験たいけんしました。1945ねんがつ1日ついたちべいぐん沖縄おきなわ本島ほんとう上陸じょうりくすると、南風原はえばるそんげん南風原はえばるちょう照屋てるやんでいたわたしたち家族かぞく親戚しんせきにんは、ちち友人ゆうじんがいる玉城たまきそんげん南城市なんじょうし親慶原おやけばるかいました。とうちゃくは、ちかくの自然しぜん洞窟どうくつやく週間しゅうかんごしました。

 その具志頭ぐしちゃんそんげん八重瀬やえせちょう)を摩文仁まぶにかいました。途中とちゅうあねたおれてしまい、両親りょうしん介抱かいほうしている最中さいちゅう摩文仁まぶにおかから機関きかんじゅうたまんできました。わたしたちは反射はんしゃてきちかくのアダンのしげみにみました。あねをかばう余裕よゆうはありませんでした。あね埋葬まいそうした両親りょうしんにせきてられるようにして摩文仁まぶに集落しゅうらくへとかいました。身内みうちくなってもなみだなが余裕よゆうなどありませんでした。

 摩文仁まぶにでは猛烈もうれつ迫撃はくげきほうおそわれました。「これでおしまいだ」と観念かんねんしたほどでしたが、奇跡きせきてき全員ぜんいんきずひといませんでした。

 6がつなかばをぎたころ、家族かぞく食料しょくりょうやくごうくらいのこめ少量しょうりょうのみそのみ。餓死がし寸前すんぜんでした。海岸かいがんちかくではふねから投降とうこうける放送ほうそうこえました。捕虜ほりょになろうと家族かぞくごうようとすると、日本にほんへいが「沖縄おきなわじんはみんなスパイだ。ときは、うしろからしゅりゅうだんころしてやるから、おぼえていろ」とすごい形相ぎょうそういました。

捕虜になるのを拒む地元民。海兵隊憲兵営倉にて=1945年4月2日(県公文書館提供)

 捕虜ほりょになるのはゆるされないことだと戦陣せんじんくんおしまれていた日本にほんへいたちは、そのおしえを、わたしたち沖縄おきなわ人々ひとびとにも強要きょうようしていました。戦陣せんじんくん存在そんざい戦争せんそうをさらに地獄じごくにしたのです。

 そのわたしたち家族かぞく具志頭ぐしちゃんそんべいぐんらわれ、ほかの民間みんかんじん佐敷さしきちょうげん南城市なんじょうし)のてんこうから久志くしそんげん名護なご)の大浦崎おおうらざき移動いどうしました。そこではは栄養失調えいようしっちょうになりマラリアという病気びょうきにかかりました。ちち病気びょうきがうつることを心配しんぱいし、わたしたちを石川いしかわげんうるま石川いしかわ)に避難ひなんさせました。11がつごろははんだことをきました。わたし気力きりょくもありませんでした。

 地獄じごくのような沖縄おきなわせんをさらに地獄じごくにしたのは、捕虜ほりょとなることをゆるさない戦陣せんじんくん影響えいきょうした教育きょういく思想しそうでした。わたしたちをおどした日本にほんへい表情ひょうじょう声色こわいろを、いまでもわすれることができません。

 (2019ねんがつ13にちづけ未来みらいつたえる沖縄おきなわせん」より要約ようやく

 

戦陣せんじんくん

 日本にほん陸軍りくぐんが「軍人ぐんじん規範きはん」としてにちべい開戦かいせんとしの1941ねん通知つうちしたおしえです。「きて虜囚りょしゅうはずかしめをけず」と捕虜ほりょになることをきんじた文言もんごんが、軍人ぐんじんたちの一般いっぱん住民じゅうみんの「集団しゅうだん自決じけつ」(強制きょうせい集団しゅうだん)につながったとかんがえられています。