島うたに刻まれた沖縄 庶民の哀れ、怒りすくい 仲松昌次<圧政下の文化活動>3


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
歌碑の除幕式で「艦砲ぬ喰ぇー残さー」を歌う「でいご娘」の島袋艶子さん(左から2人目)ら4姉妹=2013年6月23日、読谷村楚辺

 ♪夢に見る沖縄 元姿やしが 音に聞く沖縄 変わてぃねらん 行ちぶさや 生まり島
 (夢に見る沖縄はいつも昔のままだが、うわさに聞く沖縄は変わり果ててしまった。行きたいものだ、懐かしい生まれ島に)

 普久原朝喜の名曲「懐かしき故郷」は1947(昭和22)年に関西の県人会の集まりで発表された。初めてこの歌を聴いた県人たちが拍手も忘れて号泣したというエピソードは、戦後の島うたの歴史を語る時に象徴的である。鉄の暴風が吹き荒れて2年、しかし、ふるさと沖縄の親兄弟がどうなったのかほとんど知らされていなかった時期である。

 この歌がレコーディングされたのは1952年。くしくも講和条約が発効し、沖縄が日本本土と切り離された年だ。制作を再開したマルフクレコードは、「屋嘉節」「アメリカ節」「でいごの花」など次々と発売する。戦後の民謡ブームは極端に言えば、米軍占領とともにスタートした、と言えなくもない。うたは時代の世相を映す。「島うた」に込められた人々の思いとはどのようなものであったのか。

 「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は、沖縄戦を生き残った人たちが、古くから使っていた言葉を歌のタイトルにした。作者は、読谷村楚辺の比嘉恒敏。ウチナーグチで庶民の哀れや怒りをすくいあげ、日本語には変換不可能な独特のニュアンスが共感を呼んだ。

 ♪平和なてぃから幾年か、子ぬちゃんまぎさなてぃうしが、射やんらったる山猪ぬ
 わが子思ゆる如に 潮水またとぅんでぃ思れ、夜ぬ夜ながた眼くふぁゆさ
 (平和な時代になって、どのくらいたつのか。子供達も大きくなった。しかし、手負いの猪がわが子を思いやるように、子供たちに潮水を飲ませる辛い時代がまた来るのではと思うと、夜もおちおち眠れない)

 歌が作られたのは1970年前後。ベトナム戦争で基地のシマは騒然としていた。B52の爆発事故があり毒ガス移送があり、訓練用ヘリから落下したトレーラーで、娘たちと同じ年頃の小学生が死んだ。比嘉恒敏の艦砲の歌は、普久原朝喜の歌と同じく、その時代の人々に寄り添った島うたの典型となった。 占領下の暮らしのなかで、いつも思い起こされるのは「戦さ世」だ。その哀れを歌った島うたは、有名な「屋嘉節」をはじめ数多く作られている。亀谷朝仁が歌った「帰らぬ我が子」もその中の一曲だ。1番から3番までは、戦死した子を偲(しの)ぶ親の悲しみが切々と歌われる。だが4番は死んだ子が生き残った親を慰める歌詞だ。

 ♪泣くなよや アンマー 淋しさんみそな 我んや戦世ぬ 華どぅやたる。
 (泣かないでお母さん さびしく思わないで 私は戦争の花と散ったのだから)

 生者は死者によって生かされる。印象的な詞を書いたのは平識ナミ。手元にある「平識ナミ作品集」によれば、彼女は本部町崎本部の出身で、十二、三歳までは炭焼きや薪取りなどの家業を手伝い、十五歳で紡績女工になった。満足に読み書きができなかったため、後年、島うたを詠むようになってからは、即興的に詠んだ琉歌を娘さんが口述筆記したという。ビセカツ(備瀬善勝)によれば、「島に生きる庶民の哀歓を見事に表現する稀有(けう)な歌人だった」。ナミの初期の作品に「平和の願い」がある。普久原恒勇の作曲で、これも復帰運動が盛んだった1969年に作られた。

 ♪沖縄てぃる島や、何時ん戦世い、安々と暮らす 節や何時が。
 (沖縄という島はいつまで戦世なのか 安心して暮らす季節はいつになるのか)

 歌ったのは玉城安定。安定亡き後、娘の玉城一美が歌い継いだ。一美がこの歌と出合ったのは復帰3年後の1975年。海洋博のホテルで、父親が観光客相手の民謡ショーを手掛けていた。この頃は、第2次民謡ブームとも言える時期で、各地に民謡酒場が乱立していた。「安里屋ゆんた」や「十九の春」など、本土の人にもわかるようにと日本語の島うたを歌っていたが、時々、父と一緒に「平和の願い」も歌った。しかし、彼女は4番の歌詞はあまり歌いたくなかったという。

 ♪思事や一道、恋しさや大和 やがて御膝元 戻る嬉さ
 (思うことは一つ 恋しい日本 やがてその膝元に帰ると思うとうれしい)。

 復帰を夢見た一美の高校時代、熱心に日の丸を振って平和行進を沿道から応援したあの時の気持ちが苦々しく思い出される。復帰から5年がたち10年が過ぎても、理不尽な沖縄の状況は変わっていない。復帰とは、何だったんだろう、とつい考えてしまう。たかが島うたではないか、と思っても忸怩(じくじ)たる思いが湧き上がってくる。「平和の願い」はなるべく3番までで歌い終わるようにしている自分がいた。歌三線を熱心に教えてくれた父や、情感あふれる島うたを数多く詠み続けた平識ナミにはわびる思いも抱きながら…。 「平和の願い」に後日談がある。10年ほど前、屋慶名青年会が一美を訪ねてきて、エイサー曲として使いたいと言った。ハヤシの「でぃー、我ったーくぬ島ウチナー」と呼びかける歌に若い彼らが共感してくれたことがうれしかった。エイサー歌になった時に招待され屋慶名まで見に行った。見事な振付に力強い歌三線、青年たちの迫力に圧倒された。

 ♪ウチナーてぃる島や 何時ん戦世い…でぃ!我ったーくぬ島!ウチナー 平和願らな くぬウチナー!
 その時、一美は父が歌い自分も歌い継いできた島うたに、新たな命が吹き込まれた、と思った。

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 なかまつ・まさじ 1944年本部町瀬底島生まれ。首里高、琉大史学科を経て日本放送協会入局。ディレクターとして歴史・美術など主に、文化教養系番組を制作。2005年退職。フリーとなり、テレビ番組、映像記録、舞台演出を手がける。法政大学沖縄文化研究所国内研究員 著書に「艦砲ぬ喰ぇー残さー物語」。