生徒らが「抵抗の文学」 島ぐるみ闘争の一端担う 納富香織<圧政下の文化活動>4


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米統治下の1957年2月に刊行された那覇高校文芸倶楽部『車輪』3号(西里喜行氏所蔵)

 「抵抗の二文字に生きる島の夏」(石川清勝、那覇高校文芸倶楽部『車輪』第3号、1957年2月)。1956年夏、沖縄で沸き起こった「島ぐるみ闘争」にちなんだ高校生の作品だ。米軍統治下の厳しい言論弾圧の下、高校生や大学生たちは権力への批判や風刺を込めた作品を文芸誌に掲載、時代状況に抗したこれらの表現活動が島ぐるみ闘争の一端を担っていた。

 

時代状況を映す

 1940年代後半から50年代、沖縄では約20の高校文芸誌が発行されていた。48年、宮古高校にて『南秀』が創刊、49年7月には宮古高校・宮古女子高校・宮古農林高校・宮古水産高校・宮古教員訓練所の五校が「宮古学生連盟」を結成、機関誌『学生』が創刊された。50年代に入ると知念、コザ、首里、那覇、前原、読谷、八重山高校等で文芸部が結成、このような高校文芸の広がりと深まりには、『琉大文学』(53年7月創刊)も大きな影響を与えていた。高校生たちは、詩や小説、短歌等の創作活動を活発に行い、それら多くの作品や活動は、50年代沖縄の時代状況と密接に結びついていた。

 50年代の沖縄は「暗黒時代」とも称される。53年4月、基地建設拡張のため米国民政府は布令109号「土地収用令」を公布、沖縄のいたるところで強制的な土地接収が行われた。54年3月、米国民政府は軍用地料一括払いの方針を発表、これに対し同年四月、立法院は「土地を守る四原則」を全会一致で決議、しかしその後も伊江村真謝(55年3月)、宜野湾村伊佐浜(同年7月)等で土地接収が相次ぐ。沖縄社会のうねりの中で高校生たちは、創作活動を通して米軍支配に対する抵抗の文学を生み出す。

 津野創一「戯画」(首里高校文藝同人クラブ『養秀文藝』第2号、55年12月)は、米軍に土地を奪われ那覇に移り住んだ野田雄三と弟保夫、土地接収され生きる希望を失い亡くなる母ウトの物語である。主人公の雄三はかつて暮らした土地に建設された米軍のゴルフリンクへの就職を叔父に世話され、複雑な心境を抱きながらも、拒むことができない。雄三と保夫は同じように土地を接収され、その実情と窮状を訴える「S島の陳情団」に平和通りで出会う。保夫はたまらず「土地をうばわれた農民が、つまりは追い出されたまま路頭に迷つている現状を想う時、アメリカ軍政の欠陥を指摘せざるをえないのであります。土地接収への代償としていかなるものを持つてこようとも土地に勝るものはないのだ」と叫ぶ。保夫のセリフは、伊江島、伊佐浜の土地接収を目の当たりにした多くの人々の気持ちを代弁していた。 統制に屈さず

 しかしながら当時の文芸活動はかなりの制約を強いられるものだった。「反共主義」の名のもとに、人々の思想、言論は弾圧を受け、米軍の布令布告による検閲が行われた。出版物はすべて許可制であり、高校生や大学生が発行する雑誌でも事前検閲が部顧問や学校、そして琉球政府、米国民政府によって行われ、「反米的」な表現等を理由にしばしば発刊停止や回収処分を受けた。例えば56年2月、八重山高等学校文芸部の機関誌『学途』第13号が発行不許可となった。その理由は明らかにされていないが、同誌の中に「道ばたの青草は、ジープのほこりをかぶって、しおれている」との表現があり、それが「反米思想」とみなされたためともいわれている。

 50年代半ば、コザ高校文芸クラブ同人であった幸喜良秀、比屋根照夫は当時の状況を「恐ろしいのは米兵だけじゃない。あるいは先生方の中や、同級生の中に米軍へ密告する者がいるかも知らんとね。同胞を密告する奴が大勢いる中で、我々は表現活動をする。そこに圧力がある。届出制ですからね。思想統制、表現、言論統制というのを徹底的にやられていた」と回想する。そのような状況に屈することなく創作活動が行われ、同校の機関誌『緑丘』では米軍政府に対する批判的な作品がいくつも生み出された。

 

理不尽さへ怒り

 文芸活動の高まりを受け、月刊誌『高校文藝』が55年7月に創刊された(56年2月『高校生活』に改題)。全沖縄の高校生たちのつながりを目指した同誌には、50年代沖縄で行われていた灯火管制を題材にした島袋嘉之「何の灯火管制」(55年9月号)、土地接収を描いた大城将保「悲しき民族」(同年10月号)等、沖縄の現状を扱った創作が生み出された。同誌の創刊は時代状況に対する全沖縄高校生たちの問題意識を共有する場となり、多くの書き手を輩出した。同時期、高校文芸誌や『琉大文学』そして「はたらくものの文学運動」を標榜(ひょうぼう)した『沖縄文学』(56年6月創刊)等の雑誌が次々と発刊された。50年代沖縄における文学活動は、制約された状況による緊張をはらみつつ、相互に影響を与えた。

 56年6月の「プライス勧告」によって「四原則」が否定され、沖縄では島ぐるみ闘争が沸き起こった。那覇高校文芸倶楽部『車輪』第2号(56年8月)では、「吾々の人権が今日まで無視されている。人権は、吾々自らの手で守らなければ、絶えず侵害される」とした砂川計雄「平和と沖縄の現状」等、島ぐるみ闘争の熱気と、米軍占領の理不尽さに対する怒りが伝わってくる作品が生み出された。

 しかし、非常に衝撃的な事件が起こる。第二次琉大事件である。その後、島ぐるみ闘争は次第に衰退していく。高校生たちにとって、第二次琉大事件と島ぐるみ闘争の衰退は衝撃をもって受けとめられた。西里喜行「沖縄の現実と僕ら」(『車輪』第3号、57年2月)では、「現実に僕らのまわりには幾多の矛盾が積み重なつている。しかも人道的立場からして、どうしても納得出来ないことがらが、白昼公然と行われるのである。僕等の為政者は、現に多くの矛盾を目の前に見ていながらどうすることも出来ないのである。否、彼らはその矛盾を解決する前にすでに諦めているようである。琉大生処分問題にしろ、土地問題にしろ然りであった。僕らは彼らの行動や言動に、個々に於いて義憤を感ぜざるを得ない」と批判した。

 『緑丘』第8号(57年10月)に掲載された比屋根照夫の短歌「生活の中から」は「逆ひて逆ひ抜く力吾等になしが四原則くずれ行かんとする今」「土地接収の脅威吾等を覆ふ黙然として逆ふ術なき吾等農民」と島ぐるみ闘争が衰退していく状況を反映した、静かな怒りと苦渋に満ちた作品である。島ぐるみ闘争の衰退は、もともと農村であったコザにとって生活の糧を得る大切な生産の場である土地を失う恐怖が再びよみがえることであった。

 沖縄の高校生たちは、高校文芸誌を通して50年代沖縄の時代状況に抗する文学を生み出した。50年代という空間にて醸成された高校生たちのつながりゆく抵抗の文学が「島ぐるみ闘争」の一端を支えたのである。

 50年代に芽生えた抵抗への文学的表現と政治的実践は、その後の沖縄でどのように引き継がれていったのか。例えば高校文芸に関わった大城将保、西里喜行、比屋根照夫らは、その後の沖縄近現代史研究の基礎を切りひらいた。今後、改めて掘り起こしていく必要性があるだろう。

 

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 のうとみ・かおり 1974年生まれ 沖縄国際大学南島文化研究所特別研究員。沖縄近現代史専攻。主要論文「五〇年代沖縄における文学と抵抗の「裾野」―『琉大文学』と高校文芸」(藤澤健一編『沖縄・問いを立てる6』社会評論社2008年)