検閲、表現者の心縛る 作者、弾圧回避へ試行錯誤 我部聖<圧政下の文化活動>5


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我部聖

 アメリカ占領下の沖縄では、布令・布告で米軍や米国に「敵対的」な出版物は刑罰の対象となり、軍政府(のちに琉球政府)に出版の許可を得るという言論統制があった。加えて、日本本土におけるGHQによるプレスコードのような明確な基準がない中で、米軍に不都合な出版物は弾圧され、米軍占領に批判的な表現が避けられるようになる。

 1950年に開学した琉球大学では、「学生準則」において事前検閲が定められ、学内でCIC(スパイ)による監視が行われるなかで、学生たちは文芸雑誌『琉大文学』に作品を発表する。池澤聡(岡本恵徳)の「空疎な回想」(54年11月、のちに加筆・改題「ガード」)は、沖縄住民に「カービン銃」を向ける「沖縄人」ガードの葛藤を描いた小説である。この作品は沖縄に生きる人同士を争わせる構造を浮き彫りにするとともに、中国戦線で中国人を虐殺した体験から銃を用いまいとするガードを描くことを通じて、米軍の暴力を拒否する可能性が表現される。注目したいのは、検閲を通すために、米軍基地について直接的な表現を使わずに当時の読者には米軍批判とわかるような形で描いている点である。

 

発刊停止

 53年の「土地収用令」により沖縄各地で土地が強制的に接収されるなか、嶺井正は土地接収後の伊江島を訪ねたルポルタージュを発表し、またメンバーの多くは伊佐浜の土地接収の現場で抵抗運動にかかわっていた。小説では、嶺井正「土」(8号、55年2月)や池澤聡「ジャパニー」(10号、55年12月)などで土地接収を巡る問題が扱われるが、接収現場にいたはずの武装米兵や住民に突きつけられた「銃」は描かれなかった。仲程昌徳が「アメリカのある風景」で示唆したように、検閲を意識した「自己検閲」が働いていたことが考えられる。

 11号(56年3月)は、「事前検閲」に従わなかったために発刊停止となるが、実際には沖縄に駐留する黒人兵に連帯を呼びかける新川明の詩「『有色人種』抄」や直截(ちょくせつ)に米軍を批判した濱丘獨の詩「息子の告訴状」が原因とされ、米兵にレイプされたハウスボーイを描いた豊川善一「サーチライト」も反米的表現とみなされた可能性もある。

 その後、米軍の軍用地一括払い(プライス勧告)に反対する「四原則貫徹県民大会」の抗議デモに参加した「責任者」と「反米的言辞を弄した」ことを理由に、琉大の学生6人が除籍、1人が謹慎処分を受けるが、そのうち4人が『琉大文学』のメンバーであった。この「第二次琉大事件」以後も『琉大文学』関係者の作品がG2(米軍諜報部)に翻訳され、米軍の検閲は表現者の心を縛る枷(かせ)となっていた。

 

「沖縄的なもの」

 50年代末から60年代前半にかけて小説は「停滞」(岡本恵徳)の時期を迎え、『新沖縄文学』創刊号(66年4月)では「沖縄は文学不毛の地か」という誌上座談会が行われるが、同誌は沖縄の文学活動を発展させる原動力となった。創刊号に掲載された長堂英吉の「黒人街」は、65年8月頃のコザを舞台にベトナム戦争当時の黒人兵と白人兵の対立を描いているが、黒人相手の「リンカーンレストハウス」を開く「山田うめ」が「うちは、日本復帰に反対よ」、「アメリカ帰属運動をおこした方が良い位に思ってるのよ」と述べ、佐藤栄作首相来沖で盛り上がりを見せる「復帰運動」への反発が表現される。

米軍の軍用地一括払い(プライス勧告)に反対する「四原則貫徹県民大会」の登壇者ら=1956年7月28日、那覇高校校庭

 大城立裕は、語り手の娘が米兵にレイプされた事件を通じて米軍占領下の沖縄において米兵を裁判で訴える困難さとレイプ事件の被害者が何重にも沈黙を強いられる様を描いた「カクテル・パーティー」(4号、67年2月)で芥川賞を受賞し、沖縄の書き手に大きな刺激を与えた。

 施政権返還が迫る72年1月に芥川賞を受賞した東峰夫の「オキナワの少年」(71年)は、1950年代のコザの風俗を少年の視点から捉えた作品である。この小説で用いられたウチナーグチ表現は、その後の沖縄の書き手の表現意識に強い影響を及ぼすが、大城立裕の「亀甲墓」(66年)における「実験方言」を含め、「復帰」が迫る中で「沖縄的なもの」を問い返す動きがあったことは注目すべき点である。

 

新たな視点・文体

 施政権返還以後の小説には、米軍基地から派生する問題や社会状況の変化を新たな視点や文体で表現する試みが見られる。又吉栄喜の「ジョージが射殺した猪」(77年)は、ベトナム戦争が激しくなる時期の沖縄に駐留する下級米兵の視点から、人を殺す訓練で壊れゆく心情を切迫した文体で表現している。目取真俊『虹の鳥』(2006年)は、95年の米兵による「少女暴行事件」を背景に、若者たちが暴力や売春に巻き込まれる様を鋭利な言葉で描き、読者に重い問いを突き付ける。崎山多美は、『クジャ幻視行』(17年)において、不意に語り手に訪れる「声」を聴き取りながら、実体化できない地名を用いて場所の記憶を描くことを通じて、歴史や社会状況の中で不可視化された存在をすくいとる表現を試みている。

 沖縄の書き手が「復帰後」も変わらない現実を前に生じる葛藤を表現する一方で、直接「沖縄的なもの」を描かずに、距離感を持って沖縄を表現する試みもある。「沖縄的なもの」を問い直しながら、どこにもない「沖縄」という物語を描くことで、困難な状況を生きる他者の記憶と結びつくような普遍性を獲得できるのではないか。

 

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 がべ・さとし 1976年那覇市生まれ。沖縄大学経法商学部准教授。東京大学大学院博士後期課程単位取得退学。専門は沖縄近現代文学、思想史。雑誌『けーし風』、『越境広場』編集委員。主な論文に「『琉大文学』解説」、「占領者のまなざしをくぐりぬける言葉―『琉大文学』と検閲」。
米軍の軍用地一括払い(プライス勧告)に反対する「四原則貫徹県民大会」の登壇者ら=1956年7月28日、那覇高校校庭